祭多まつり(ペンネーム)について

現代ほど祭りが忘れさられている時代はない、と同時に現代ほど祭りが必要とされている時代もない。

確かに祭りの周辺と呼ぶべき「縁日」的な被日常性は支払う代価に応じてもたらされるようになり、享楽を受託する場所は数多く建設されている。

だが、それは祭りに似せたシステムであり、本来の祭りの機能の一部である「日常性の再構築」としての「ケの開放」は起こり難く、人は擬製のシステムの中で祭りを渇望するよう仕組まれている。

もはや現在において「ハレ」の日は存在しえないのであろうか。

我々はシステムの中で縁日の享楽を授与されながら生きていくしかないのであろうか。

失われた本来の祭りはどこにあるのか。

結論を言えば、もはや現代人は縁日を否定しては生きていけない。

我々にできるのは縁日の裂け目から湧き出る被日常性を伺いつつ、自ら祭りを創造することである。

「言葉」という体験が「祭り」という「非日常」をもたらし、その結果、あなた自身に自らの日常を創造する力が湧くことを期待し、祭多まつりとして活動しています。あなたの「祭り」を応援します。


文学的な、余りに文学的な

(日々のエッセイです。ときどき迷走します。それでも、毎日書きます。)

ここから

半年ぶりに自身の言葉で文章を書く。人に言葉を発することの虚しさを感じ、ノートを閉じたのは9月の半ばであった。分かる人には言葉を発せずとも伝わり、伝わらない方には、何を変えても伝わらない。自身の未熟さを諦めという言葉で濁し、三年の間に毎日育て続けた言の葉も、自ら枯らすこととなった。言葉で伝えることの絶望から歩みをはじめた釈迦や、言葉を命がけの飛躍と称した評論家のようにはいかず、私の言葉が伝わらないのは、言葉を背負う覚悟の不在にあった。そうして半年の間、仕事や遊びや何やらと無難に過ごしてきたが、有難いと感謝を抱くことは以前よりなかったように思う。そうして過ごすうちに偶然という必然から、私は自身が以前に書いた文章を読むこととなった。書き貯めた、1000を越える文章を読み直し、稚拙ながらも、私は自身の言葉を理解した。私は確かにそこにいて、誰かに向かって言葉を発していたのである。私は再び感謝を知った。言葉が伝わるということ。伝えるべき他人がいるということ。まだ、時間があるということ。ここからまた、私は言葉を綴りはじめる。

拡散と集中3

スマートフォンで戦争ゲームをしながら、人の運命、とくに生死について考えを廻らしている。人の生を『集中』と定義するならば、人の死は『拡散』となる。人という存在が『集中』する意味はどこにあるのだろうか。それとも人にとって『拡散』は、出鱈目で不条理なただ偶然の恐るべきものなのだろうか。『集中』と『拡散』という宇宙にとってただそれだけの出来事の中で、人間はさまざまなことを行う。死の順番が差し迫るのを知ってか知らずか、人は常に、何かに追われている。その恐怖を振り払うかのように、ときには何かに没頭し、ときには何かで、気分を紛らわしている。ゲームの中では兵隊が、毎日毎日たくさん戦い死んでいく。現実もまた、同じなのだろう。遠い国の兵士だけでなく、毎年100万人以上の人間が死んでいくこの国で、2万を越える人間が自ら命を絶っていく。運命とは定められたものなのだろうか。それともそれは人間が自身で作り上げることのできるものなのだろうか。たまたま歩いていた地面に蟻が一匹這っている。意識せずに人は蟻を踏み潰す。意識もしない空気を肺にいれ、細胞が勝手にやってることだと高を括り、使い終わった酸素を無理やり炭素と結合させる。どこで何が起きているかを知らず、聞こえない叫びを聞くことのできない人間は、無明という暗闇の中を、手探りで歩いている。日常という時間を、何かのためのという憐れな事で、費やしていく。人という存在が宇...

拡散と集中2

この世界では相対する2つの事象が起こっている。力を内側に向ける組織化というアポロンの力による集中という事象と、集中を溶き力を外に向かって発散させるディオニュソスの力による拡散という事象と。集中という事象は至るところで見つけることができる。波長を同一とする物質同士は互いに惹かれあう。つまりは集中する。地球のマントルでは鉱物が集中し、高熱と高圧縮の結果、一つの結果が生まれる。それが結晶、つまりは宝石である。樹木は大地から栄養を吸い、太陽のエネルギーを葉に蓄え、やがて一本の大木となる。動物もまたエネルギーの循環と集中の結果、一つの種の形成となる。人という種においても集中がその活動において特徴となる。人が集まり、集落が形成され、やがて1人の王という存在に人間という種の活動が集中する。食料、貨幣、人、労働が集まり、集中はやがて国となる。現代社会においてもまた、集中が人間活動の中心となる。企業も人も人々の意識を向けさせ集中させることで、さらに人も金も集めることがでかる。何かや誰かに集中させること、人気という投票、つまりは集中が目的となる場合もある。集中した結果、さらに大きな集中を集めてくる。3に続く・・・

拡散と集中

2ヶ月ぶりに文章を書く。60日間、あいも変わらず、考え事をしていた。宇宙はなぜ存在し、人はなぜ存在しているのか。いや、人はなぜ何かが存在していると感じてしまうのか。考えても仕方のない問い。それよりも、日々の暮らしを少しでも向上させた方がどれだけましだろうか。だが、心にはブラックホールのような黒い穴が空いていて、その穴が日常から私を伺っている。そのため私は日常に埋没することが出来ず、かといって潔く穴に吸い込まれることも、善しとしていない。完全に穴に飲み込まれてしまう前に、私は存在という謎のヴェールをめくりたいと思っている。この2ヶ月で何か新しい発見があったかというと、成果を誇るようなものは何一つなく、穴の中から私を呼ぶ声に対し、私はまだその時ではないと、穴に向かって言いなだめている。私は、急がねばならない。いびつな穴はどこにでも現れる。いつ私の両足の下に大きな穴ができるのか、それは、明日かもしれない。数秒後かもしれない。だが、焦れば焦るほど、私の思考は同じところをいったりきたりしている。たまに何かが分かりかけることもあるが、本当は、まだ何一つ分かっていないのだ。はたから見れば私の生活は充実して見えるかもしれない。仕事上のプロジェクトは軌道にのり、キャリアアップのための試験を受け、2ヶ月の間にラグビーや剣道の試合を観戦をし、応援する声優の舞台を見に行き、バーにいっては飲んだくれ、隣に座...

必然

人は死という目覚めに向かい、運命という糸をたぐり寄せ生きている。その運命と呼ばれる出来事は、いつ必然に形を変えるのであろうか。人は道理を知らずとも、生きていける。1+1が0や3ではなく2である原理を知らずとも、1+2は3であると導くことができる。酸素が細胞の代謝でどのようにエネルギーとなるのか知らずとも、呼吸をすることができる。本質を追及する哲学でも直感の先の根本を本質以上の因で定めることできず、この世の事象をすべて変換可能な記号で記述する数式も、公理についての追及はなされない。人は風の流れの原因を知らずそれを感じ、存在の原因を知らずとも、人は日常を生きることができる。人はそれを知らずともそれをそれと認め生きることができる。滝を昇る水があっても、水はまたいずれ低き場所に流れるのが道理である。波と波が重なれば大きな波ができ、白と黒が重なれば灰となるのが道理である。人の日常もまた、同じである。道理に道理を重ねることで、人は今を生きている。体を痛めることをすれば体を痛め、心を癒すことをすれば心が癒される。危ない道に進めば危険に出会い、果実を目指せば果実に近づく。そうして、必然に必然を重ね、生きるということのすべてが分かるわけではないが、すべてに納得し、人は生き死ぬことができる。

幸福について

今日もまた、不毛な問いを繰り返している。音響技術や映像技術の活用により、長時間を費やし瞑想に深く入りこまずとも、人は誰でも容易に変性意識状態になれる時代となった。つまりは、誰でも簡単に幸福感を得ることが可能となったのである。このとき得られる幸福が本当の幸福であるか否か、今日はそのことについて考えてみたい。薬や酒で気分が高揚してもそれが長くは続かないように、人の幸福が永遠に続くことはないように感じられる。では、人の幸せはすべて幻なのであろうか。変性意識の中で人は宇宙の意識と同化し、自身の使命や人類の意味を理解することがあるが、それでも人は、日常の中で幸福を忘れる。地球を我が子であると思い大地を抱いて慈しむことがあっても、幸福を忘れる。人類の破滅を予言する者や、怒りのため、地球の破滅を祈る者もいる。ときには悲しみに沈み、人類の不幸を嘆き、その結果、見えない幸福に向かい手を伸ばすこともある。その先に、人の幸福はあるのだろうか。最近、地球の浄化がはじまるという話をよく耳にする。いわく、人類のエゴにより地球自らが粛正をはじめる。いわく、宇宙の意思により地球に隕石がぶつけられる。いわく、増え過ぎた人類を危惧し、人類が自ら破滅へと向かう。妄信のあまり、個人の誰かが人柱となって地球を救ったというよ迷い事が発せられる場合もある。恐れずいえば、物質世界にあって借り物の形を得た宇宙にとって、地球という存...

文学的な、あまりに文学的な

夢の中で、男がペンを握り、紙の上に文字を走らせている。ときとぎ喘ぐように口から息を漏らし、鬼気迫る様子で原稿用紙と対峙している。男が書いているものはおそらく、文学と呼ばれるものであろう。だが、はたしてそれは本当に文学なのだろうか。文学であった場合、原稿用紙に埋められていく文字は、いつ文学と呼ばれるものになるのだろうか。例えば、白い紙にたった一文字『阿』と書かれているとする。はたしてそれは文学と呼ばれるだろうか。文学と呼ぶには短すぎるという意見があるかもしれない。では、文学とはいったい、何を指すのであろうか。『うんこがしゃべった。言葉なんて使わずに。みんなは黙って、うんこの声を聞いていた。』それでは、この文は文学と呼べるだろうか。まだ短いと思う人もいるかもしれない。『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』だが、31文字の和歌は文学として、立派に成り立っている。文学にとって文字の長さは関係なくはないが、それほど重要ではなさそうである。それならば、先ほどのうんこが文学だと思えないのはなぜだろうか。うんこは文学ではなくドリルであると表現すれば、今の時代に生きる日本人には通じても、他の国や時代が変われば、ナンセンスな発言となる。うんこを文学だど信じ、40字足らずの文章を文学賞に応募したら、万が一にも受賞することはあるだろうか。絶対とはいいきれないが、絶対、受賞...

星のめぐりと9月からの予定

ずっと同じところにあるように思える星も時間とともにその位置を変えるように、8月も残すところ一週間となった。8月は自信がテーマである獅子座の新月ではじまり、水瓶座の満月、そして乙女座の新月へと移り変わる。そして9月は魚座の満月、天秤座の新月となる。太陽の位置と星座で示される天体の動きが実際に人間にどう影響を与えるのか、それとも本当は何も影響しないのかまだ分かっていないが、人間にとって月日は確実にすぎていくことは間違いのないことのようである。個人的なこととしては、8月は親戚と知人の葬儀があり、生きるということを考える時間がいつもより多くあった(いつも考えているが)。時間がなく、お祝いしたい人の誕生日はほとんどお祝いできなかったが、それもまた星のめぐり合わせなのだろうと感じている。親戚の葬儀にあっては妻を亡くされた喪主である義理の叔父の言葉が、私の普段綴っている言葉が陳腐に感じるほど重いものであった。そして人の死を前に改めて人が生きるという奇跡のような出来事を確認したのである。さて、これもまったく個人的な予定であるが、8月末に向けた文学賞への投稿作品がまだ出来上がっていない。50枚程度なら3日で書けるだろうと、8月前半にさぼっていた自身の怠惰が原因だが、後半どこかで不眠で頑張れば大丈夫だと考えていた当初の予定通りでもある。ということで、今週中に必ずしあげなければならない。夏休みの宿題に追...

TOTOときどき宇宙

現状におきるすべてのことは、すべての存在が力を最大限に発揮した結果のところのものである。さまざまなしがらみの中で力を発揮できないといったことや、さぼってしまうこと、失敗も含め、それが現状ある最大の力であるから、人にとって今という瞬間こそが、最大が続いた結果であるとも言える。ここ2ヶ月ほど、サッカーくじであるTOTOを予想している。9週間で500パターンほど、つまりは5万円ほど予想して3等が3回、miniの1等が1回当たったが、収支は若干マイナスである。サッカーチームの監督は毎試合毎試合チームの力を最大化するために戦略をたてる。グラウンドにいる11人はもちろん、控えの選手、ホームの環境、フォーメーション、対戦相手の戦略などに対し状況に応じて変化させながら、チームを勝利に導く。そうして選手が最大限に力を発揮した結果を模索して臨んだ試合の結果が監督とチームの今ある最大の力であり、TOTOはそれをふまえ、勝負の行方を予想する。先週は監督が不在のチームが2チームあり、当然のごとくそのチームは負けた。そのようなチャンスにあって、残りの11試合のうち3試合も予想を外す私の読みの浅さに落胆しているところだが、それもまた、現状ある私の最大の結果であるとも言える。そのようにサッカーを観戦していたところ、私の中で一つの疑問がわいてきたので、今日はそのことを日記に書きたい。選手がボールを蹴るとき腿の筋肉が...

地球に生まれて

空が暗ければ暗いほど星が輝いて見えるように、暗闇の中では光が明るく見える。人間の努力が尊く見えるのは、私がまだ愛に至っていない証であるとも言える。人は何を為すのかという自問の先に、一つの灯りが見えはじめている。ただ存在したことを、その奇跡のような出来事を有り難く思う。感謝に包まれた後で、人はそのとき何を為すか。何もせず感謝に包まれて生きるのも良い。何かしたいことがあればそれをするのも良い。口を広げて酸素を吸うと肺から受けとった酸素を血液が血管を通り細胞に届け、細胞に住むミトコンドリアが酸素をエネルギーに替えていく。一呼吸一呼吸に全身の細胞が喜んでいるのが分かる。空気の振動は音を耳に伝え、物質の波長は光を反射し、目に色と形を見せる。匂い、形、音、色、味、感触、思考、記憶、感情といった人間として感じることのできるすべてのことは、すでにそれだけで尊いものである。地球に生まれて、楽しいことはたくさんある。地球上に存在する美味しいものを見つけて食べる。地球から遠くの星々を眺める。地球上に存在する他の生命と出会う。地球の言葉で誰かと会話する。本を読む。映画を見る。服を着る。何かを学ぶこと。スポーツ。お酒にダンス。コンピュータ。賭け事。折り紙。ゲーム。裁縫。音楽。アニメ。刀剣。仏像。絵画。乗り物。化学。経営。旅行。武道。栽培。電気。鉱石。歴史。仮想。書。教育。建築。身体。芸術。文化。地球上には味...

天上天下唯我独尊

幸福について考えている。世に幸福を語った言葉は数多あり、セネカの『幸福論』、ヒルティの『幸福論』、アランの『幸福論』、ラッセルの『幸福論』、それに福山雅治や椎名林檎の『幸福論』が有名である。もちろん、それらの言説を目にしても、人は幸福にはならない。(ちなみに好きな歌です)現代では多くの人が幸福は実践の中にあると説くが、私はそれを信じていない。人は何もしなくても救われ、つまりは実践などなくても幸福の中に生きることができる。そして目の前に不幸な人がいれば、瞬時に幸福で包むことができると、私は信じている。だが、それと同時に、目の前で泣き叫ぶ者を、瞬時に癒すことのできない己の無力さも痛感している。人は生まれ落ちてから命を落とすまで、常に幸福の中にいつづけることはできないのだろうか。幸福という概念とは次元を異にするところにお釈迦様がいるが、お釈迦様もまた、生きている間に心を痛めることがあったと理解している。釈迦の生まれ故郷であるカピラ城は、釈迦が生きている間に隣国の強大なコーサラ族によって滅ぼされている。ほとんどのシャカ族がそれにより亡くなっている。舎利弗、目連などの高弟にも先立たれ、地方では釈迦の教えを己のために悪用する者も現れていた。釈迦の最後となった旅の理由にはさまざまな意見があるが、コーサラ国やその他の国が武力で争うのを諫(いさ)めるための旅であり、教えを再び説いて廻るためであり、死...

文学、ときどき晴れ

日々、文学を書いている。生活の中心は文学を書くことにある。それでも、自分が何者であるかと問われると、答えに窮(きゅう)してしまうことがある。昨日、部屋の片付けや昔に書いた小説の整理をしていた。もう20年以上前に書いた『サンタの日記』や高校時代にはじめて書いた『青空』という小説を読み返し、文章と構成の稚拙さに恥ずかしさを覚えながら、前日に懐かしい時間を過ごしたこともあり、過去を振り返っていた。土曜日、高校時代の部活動の顧問であり、高校3年生のときに担任であった先生の、定年退職のお祝いの会が催(もよお)された。高校生活や部活動である剣道、さらにその後の進路などでも大変お世話になった先生であり、一言で言えば感謝しかない。だが、先生との個人的な思い出は、正直に言うと、あまりない。高校時代、私は何をするにも疑問を抱いてしまうといった、一種の心の弱さを抱えていた。家に帰れば仏典と古今東西の哲学書をあさり、ときどき何もかも忘れたくて夜の街を原動機付自転車で暴走していた。剣道の試合に出させて貰っても、試合の勝ち負けよりも、剣道をするということの意味を問いながら、竹刀を構えていた。そんな迷刀を振り回していては勝負はままならない。格下の高校の生徒と竹刀を交えれば無様な試合を展開し、優勝候補である私立高校の生徒には、昔に覚えた先(せん)の妙技がまぐれに発揮されて勝ちを拾ってくる。私が出場すると試合は毎回...