人は死という目覚めに向かい、運命という糸をたぐり寄せ生きている。
その運命と呼ばれる出来事は、いつ必然に形を変えるのであろうか。
人は道理を知らずとも、生きていける。
1+1が0や3ではなく2である原理を知らずとも、1+2は3であると導くことができる。
酸素が細胞の代謝でどのようにエネルギーとなるのか知らずとも、呼吸をすることができる。
本質を追及する哲学でも直感の先の根本を本質以上の因で定めることできず、この世の事象をすべて変換可能な記号で記述する数式も、公理についての追及はなされない。
人は風の流れの原因を知らずそれを感じ、存在の原因を知らずとも、人は日常を生きることができる。
人はそれを知らずともそれをそれと認め生きることができる。
滝を昇る水があっても、水はまたいずれ低き場所に流れるのが道理である。
波と波が重なれば大きな波ができ、白と黒が重なれば灰となるのが道理である。
人の日常もまた、同じである。
道理に道理を重ねることで、人は今を生きている。
体を痛めることをすれば体を痛め、心を癒すことをすれば心が癒される。
危ない道に進めば危険に出会い、果実を目指せば果実に近づく。
そうして、必然に必然を重ね、生きるということのすべてが分かるわけではないが、すべてに納得し、人は生き死ぬことができる。
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純文学作家(自称)
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