幸福について

今日もまた、不毛な問いを繰り返している。

音響技術や映像技術の活用により、長時間を費やし瞑想に深く入りこまずとも、人は誰でも容易に変性意識状態になれる時代となった。
つまりは、誰でも簡単に幸福感を得ることが可能となったのである。
このとき得られる幸福が本当の幸福であるか否か、今日はそのことについて考えてみたい。


薬や酒で気分が高揚してもそれが長くは続かないように、人の幸福が永遠に続くことはないように感じられる。
では、人の幸せはすべて幻なのであろうか。

変性意識の中で人は宇宙の意識と同化し、自身の使命や人類の意味を理解することがあるが、それでも人は、日常の中で幸福を忘れる。

地球を我が子であると思い大地を抱いて慈しむことがあっても、幸福を忘れる。

人類の破滅を予言する者や、怒りのため、地球の破滅を祈る者もいる。

ときには悲しみに沈み、人類の不幸を嘆き、その結果、見えない幸福に向かい手を伸ばすこともある。

その先に、人の幸福はあるのだろうか。
最近、地球の浄化がはじまるという話をよく耳にする。
いわく、人類のエゴにより地球自らが粛正をはじめる。
いわく、宇宙の意思により地球に隕石がぶつけられる。
いわく、増え過ぎた人類を危惧し、人類が自ら破滅へと向かう。

妄信のあまり、個人の誰かが人柱となって地球を救ったというよ迷い事が発せられる場合もある。

恐れずいえば、物質世界にあって借り物の形を得た宇宙にとって、地球という存在がなくとも、宇宙は何ら、困りはしない。

その地球のために、宇宙は何ら武装をする必要もなく、ただの風のような一凪ぎて、銀河を滅することも、保つこともできる。

地球という星の海岸にペットボトルが打ち上げられようが、北の大地の氷が溶けようが、天上の星々の輝きが失われることはない。

銀河の端の小さな渦に起きた爆発で太陽が誕生し、それに引き付けられるようにいくつかの星が誕生した。 
その一つが地球であり、地球に誕生した有機生命体という小さな現象が何億年という年月を折り重ね、人類が存在することとなった。
その人類が為すことについて、宇宙が何か悲観する必要があるだろうか。

否。

太陽はいつかなくなる。
地球もいつかなくなる。
それは時のさだめである。
それを嘆く必要はない。

宇宙が滅するまでの時間とくらべれば人の生は僅かで儚い。
そのつかの間の生の間に意思を自由に遊ばせることは、儚いからこそ、貴重なことである。

人が生きることで憂いをもつことは何一つ、必要ない。
生きていれば、愛する人が死に、絶望することもある。
他人に嫌われ、地獄のような責め苦を味わうこともある。
だが、たとえ不幸の底に落ちたとしても、それは、存在という幸福の中でおきる夢のような時間のことである。

悲しみで涙を流すこともある。
そんなときは、たくさん泣いたらいい。
悔しくて暗闇の中で叫び続けることもある。
そんなときは、たくさん叫び続けたらいい。

それでも人はまた、幸福の感情をとり戻すができる。
人は常に、幸福の中にいるのだから。

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純文学作家(自称)