文学的な、あまりに文学的な

夢の中で、男がペンを握り、紙の上に文字を走らせている。
ときとぎ喘ぐように口から息を漏らし、鬼気迫る様子で原稿用紙と対峙している。

男が書いているものはおそらく、文学と呼ばれるものであろう。
だが、はたしてそれは本当に文学なのだろうか。

文学であった場合、原稿用紙に埋められていく文字は、いつ文学と呼ばれるものになるのだろうか。

例えば、白い紙にたった一文字『阿』と書かれているとする。
はたしてそれは文学と呼ばれるだろうか。
文学と呼ぶには短すぎるという意見があるかもしれない。

では、文学とはいったい、何を指すのであろうか。
『うんこがしゃべった。言葉なんて使わずに。みんなは黙って、うんこの声を聞いていた。』
それでは、この文は文学と呼べるだろうか。
まだ短いと思う人もいるかもしれない。
『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
だが、31文字の和歌は文学として、立派に成り立っている。
文学にとって文字の長さは関係なくはないが、それほど重要ではなさそうである。
それならば、先ほどのうんこが文学だと思えないのはなぜだろうか。

うんこは文学ではなくドリルであると表現すれば、今の時代に生きる日本人には通じても、他の国や時代が変われば、ナンセンスな発言となる。

うんこを文学だど信じ、40字足らずの文章を文学賞に応募したら、万が一にも受賞することはあるだろうか。
絶対とはいいきれないが、絶対、受賞することはない。

言葉が文学に変わるには、何が必要なのだろうか。

『故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。』
民法709条の一文は文学になるだろうか。
これも、文学にはならない。

法律の適応には事実に対する法の解釈や推量があるにしても、個人の想像が入る余地はない。

それに対し、文学は想像の産物である。
ノンフィクションの作品であっても事実の羅列があるわけではなく、作者の提示した言葉の羅列が、受け手の想像を作る。
それが文学と呼ばれるものとなる。
その、想像を喚起させる言葉の連なりが、受け手によりどんな風にでも想像できてしまうものは文学にならず、また想像の余地のない文章もまた、文学とはならない。

だから『阿』の一文字が密教で不生不滅を表現しているとしても、文学にはならない。
文学で不生不滅を表現するには、それなりの言葉の纏まりが必要となる。

少々脱線するが、お釈迦様の発した言葉について考えてみたい。

お釈迦様は人々から苦しみを除くために、方便として様々な言葉を発した。
物質というのは宇宙からの借り物であり、人間の体もまた、借り物である。
この世界は空である。だから苦しみもまた、空である。
そんなことを言ったりもした。

それを信じるならば、この世で起きることは、夢のようにすべて幻であると言える。
では覚者と呼ばれる者は、夢から醒めた世界で何を見るのだろうか。

この現実という世界では物質的な制限や時間的な制限があるが、人は本来、何ものからも自由であるともいう。

では覚者ではない我々人間が、この不自由な物質世界で意識を持って生きる理由は何であろうか。

どんなに空であると言われても、この世界での苦しみや楽しさは、事実としての体験である。

確かに、この世界で形づくられる一人の人間という存在は、広大な宇宙の中で、エネルギー変換の結果、仮にもたらされた小さな事象の一つにすぎない。

それでも、そんな一茎の葦である人間だが、パスカルのパンセから言葉を借りずとも、人間の想像は、この広大な宇宙を包むことができる。
つまりは、莫大なエネルギーを内包する宇宙を越えて、人間は想像を膨らませることができるということである。
その想像というエネルギーはどこからやってくるのだろうか。

男は夢の中で、宇宙についての物語を書いている。
それはやがて文学になると男は期待している。
男の文学の中で、人間は生きながらこの世という夢の中に生きている。
そして夢の中で生じた想像は、現実という夢を越えることができる。

男が原稿用紙と対峙するように、人はみな、現実の世界で何かと対峙する。
ある者は生活と対峙し、ある者は不正と対峙し、ある者は己と対峙する。
そしてその対峙が、新たな想像というエネルギーを生む力となる。

そして、夢の中で言葉が世界の中で誰かに伝わったとき、その想像が文学となる。

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純文学作家(自称)