拡散と集中3

スマートフォンで戦争ゲームをしながら、人の運命、とくに生死について考えを廻らしている。

人の生を『集中』と定義するならば、人の死は『拡散』となる。

人という存在が『集中』する意味はどこにあるのだろうか。
それとも人にとって『拡散』は、出鱈目で不条理なただ偶然の恐るべきものなのだろうか。

『集中』と『拡散』という宇宙にとってただそれだけの出来事の中で、人間はさまざまなことを行う。

死の順番が差し迫るのを知ってか知らずか、人は常に、何かに追われている。

その恐怖を振り払うかのように、ときには何かに没頭し、ときには何かで、気分を紛らわしている。


ゲームの中では兵隊が、毎日毎日たくさん戦い死んでいく。
現実もまた、同じなのだろう。

遠い国の兵士だけでなく、毎年100万人以上の人間が死んでいくこの国で、2万を越える人間が自ら命を絶っていく。

運命とは定められたものなのだろうか。
それともそれは人間が自身で作り上げることのできるものなのだろうか。

たまたま歩いていた地面に蟻が一匹這っている。
意識せずに人は蟻を踏み潰す。

意識もしない空気を肺にいれ、細胞が勝手にやってることだと高を括り、使い終わった酸素を無理やり炭素と結合させる。

どこで何が起きているかを知らず、聞こえない叫びを聞くことのできない人間は、無明という暗闇の中を、手探りで歩いている。

日常という時間を、何かのためのという憐れな事で、費やしていく。

人という存在が宇宙に存在する意味が、はたしてあるのだろうか。

人が拡散していく。意識が拡散していく。宇宙が拡散していく。

時間は無限にあるようでいて、もうあまりない。

人類がいなくなり、地球がなくなり、宇宙が消滅する。

焦っているのは私だけであろうか。

人類がいなくなり、地球がなくなり、宇宙が滅することも、それはただ集中と拡散で生じる、ただの結果に過ぎない。


顔も、住んでいる場所も、年齢も知らないプレイヤーたちが、今日も戦争ゲームの中で、兵士を動かしている。

兵士が戦いたまに勝利し、たまに死んでいくことに、きっと意味はない。

中学生だろうか。ゲームの中のチャット機能で、期末試験の勉強がすすまないことを嘆いている。
それと同時に、魔獣を倒し、感謝を述べるものや、兵士を殺され嘆くものもいる。

それらもまた、何かのためにあるものではなく、それはただ、それとして起きていいる。

ならばまた、私も誰も、嘆くことは何一つないだろう。

たまたま人という時間を得たことで、人はその時間の中で、何かに集中する。

他人の意識に集中している余裕はない。
何かのための何かに時間を費やしている場合でもない。
己の、与えられた今という瞬間に集中すること。

魔獣を倒したことを喜び、感謝する。
息を吸い吐き出すことに喜び、感謝する。
今という瞬間を喜び、感謝する。

それが人のさだめである。

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純文学作家(自称)