天上天下唯我独尊

幸福について考えている。


世に幸福を語った言葉は数多あり、セネカの『幸福論』、ヒルティの『幸福論』、アランの『幸福論』、ラッセルの『幸福論』、それに福山雅治や椎名林檎の『幸福論』が有名である。

もちろん、それらの言説を目にしても、人は幸福にはならない。
(ちなみに好きな歌です)


現代では多くの人が幸福は実践の中にあると説くが、私はそれを信じていない。
人は何もしなくても救われ、つまりは実践などなくても幸福の中に生きることができる。

そして目の前に不幸な人がいれば、瞬時に幸福で包むことができると、私は信じている。

だが、それと同時に、目の前で泣き叫ぶ者を、瞬時に癒すことのできない己の無力さも痛感している。

人は生まれ落ちてから命を落とすまで、常に幸福の中にいつづけることはできないのだろうか。

幸福という概念とは次元を異にするところにお釈迦様がいるが、お釈迦様もまた、生きている間に心を痛めることがあったと理解している。

釈迦の生まれ故郷であるカピラ城は、釈迦が生きている間に隣国の強大なコーサラ族によって滅ぼされている。
ほとんどのシャカ族がそれにより亡くなっている。
舎利弗、目連などの高弟にも先立たれ、地方では釈迦の教えを己のために悪用する者も現れていた。

釈迦の最後となった旅の理由にはさまざまな意見があるが、コーサラ国やその他の国が武力で争うのを諫(いさ)めるための旅であり、教えを再び説いて廻るためであり、死期を悟った釈迦が亡き母のお墓を目指した旅であった。
その旅の途中で、たまたま寄ったパーヴァー村で、釈迦は鍛冶工のチュンダからお粥の施しを受ける。
それが起因し激しい下痢と腹痛をおこすが釈迦はさらに西へと目指す。
だが、母の眠るラーマ村を目前に、ついに釈迦はクシナガラの沙羅双樹の林の中で倒れる。
もはや自分で体を動かすこともできず、弟子の阿難に命じ頭を北に、顔を西に向かせる。
そうして釈迦は『自灯明』という言葉で語られている最後の教えを、阿難に授(さず)けることとなる。


ときは変わり、今は西暦2019年である。
来月、中国一の金持ちと言われる馬雲(ジャック・マー)がアリババグループの会長を引退する。
アリババを知らない人はいないと思うので説明は省くが、孫社長率いるソフトバンクが創業まもないアリババに20億円出資し、その後その出資金が5兆円以上に成長したことはあまりに有名な話である。

8月5日現在、アリババは創業20年目にあってアジアで時価総額1位の企業であり、世界では5番目の企業である。
小売企業・流通部門では流通総額が数年前に米ウォルマートを抜いて世界1位となっている。
そんなジャックマーであるが、彼もまた多くの実業家と同じく、アリババで会長でいることは幸せではなかったと言っている。
彼は引退後、多くの実業家と同じように、福祉と教育の事業に尽力するといっている。
そして、ジャックマーもまた、多くの実業家と同じように、己に尽くすことの大切さを説いている。


人の幸せとは何かともう一度問うてみる。

予期せぬことがおこり、使いきれぬほどの大金をつかむことがある。

努力に努力を重ね挫折の後でも諦めず、長く目指したものをついに掴んだ瞬間、人の喜びは最高潮を向かえるだろう。

愛する者の愛しい背中を腕に抱き、ベッドの上でカーテンから漏れる朝日を浴びながら、ゆっくりと優しく流れる大気の中で互いの身体に口づけし合う時間は、確かに幸せであるように思う。

お腹を痛めて産んだ子がさまざまな困難を乗り越え成長し、その子がやがて一つの結果を残す。それは親にとってかけがえのない喜びとなるだろう。

生きていれば、永遠が一瞬に圧縮されその瞬間を永遠と等しく味わうこともある。

そのような幸せを持った人でも、人はときに悲しみの中で涙を流す。

人にとって永遠に続く幸せが、永遠にもたらされることはないのであろうか。

本当の幸せというものが、山の彼方の空遠くにあるわけでないことに誰もが気づきながら、幸せというイデアがどこかにあるのではないかと思ってしまうのもまた人間である。

身体の自由の利かなくなった人間が、そのときになり身体を自由に動かせることの有り難さを知るように、日常が日常であることの有り難さは、日常が失われて気づくことでもある。

再び問う。
人の幸せとは何であろうか。

サイの角の如く唯一人、己の道を歩むことで人は何を見つけるだろうか。

天上天下唯我独尊。
人は生きている。

雨が降れば雨に感謝し、朝陽が登れば朝陽に感謝し、大地を歩けば大地に感謝し、空気を吸えば空気に感謝し、言葉を使えば言葉に感謝し、体に感謝し、音に感謝し、色に感謝し、味に感謝し、天上の星々と心の道徳律に感謝し、幾千と続く過去と幾千と続く未来に感謝し、すべての命と、すべての命でないものに感謝する。


天上天下唯我独尊。
そうして人はやがて死ぬ。

生と死の間に生きる人間は、幸せを求め、今日も生きている。

0コメント

  • 1000 / 1000

祭多まつりのWEB SITE

純文学作家(自称)