生きて何をするか

人は生きて何をするのか。
そんな愚問を抱いてから、40年近く経った。

ナザレのイエスが言うように、永遠のパンとワインを食した者は、いついかなるときもすべてが満たされていると感じるため、何も欲したりはしないだろう。

この世のすべてが完璧であるなら何もする必要はなくなる。

禅僧でもそのように考える人がいて、感謝の祈りすら不要となる。

だが、凡人である我々はすぐに不足を感じ、生きている間に何かをしようとする。

人が何かをするというのは、その人が感じる不足に応じて何かをする、ということである。

五体の欲は不足を要求し、酸素の不足を感じれば、息をあらげる。

高僧は食物を口にすることに不足を感じなくなり、呼吸すら不要となる。
そうして即身成仏となり、曼荼羅のように、この世が満ちていることを体現する。

人は何もしなくても、すでに救われている。
かつて私はそのように書いた。

だがそれは、永遠のパンを食した者や、禅僧のように達観した者が、常に世界が完璧であることを知るからこそ何もしないで救われている。

だが、俗仏として生きる我々は、世界はまだ、満ちていないと錯覚する。
自らの未熟さを、向上心や発展という言葉でごまかし、精進を重ねる。

それでは、人間の努力はすべて間違っているのだろうか。

私は、そうは思わない。

不足を感じる者は、不足を埋めるために、何かをする。
お金の不足を感じる者はお金を稼ぎ、消費が足りないと感じる企業は広告を出し、社会に正義が不足していると思う者は正義を実現し、世界に平和の不足を感じる者は平和を訴える。

満ちた世界に向かって人は歩んでいる。

チョコレートの破片。
道に落ちたペットボトル。
割れたグラス。

すべてはその歩みの中で、人が満ちた世界を目指した経過の中で生じている。

電車の中で足を踏まれる。
財布を落とす。
鳥の糞が頭に落ちる。

不幸と思えることも、すべては満足に向かう途中で起きた過程の出来事に過ぎない。

万(よろず)のことが満ち足りた世界に向かって、人は今日も生きている。

子どもあやし、買い物をする。
洗濯をし、テレビをつける。
雑誌をめくり、食物を食べる。
人は生きて何かをする。

それはすべて、世界の不足を満たすためである。
自分の不足を思い、不足を満たすために、人は今日も何かをする。
誰かを思い、誰かのために、人は明日も何かをする。
世界を思い、世界のために、人はこれからも何かをする。
人はそうして生きている。

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純文学作家(自称)