今日の日記 6/24(月)

ようやく心のざわめきが落ち着いてきたので、5日ぶりに日記を書くことにする。

先日、『ぞっかん』という言葉を目にし、この5日の間、考えを巡らしていた。

私にとって『ぞっかん』とは、綺麗な魚が泳ぐ水族館のことでも、イルカやペンギンの可愛いらしいダンスがある水族館のことでも、恋人とドキドキしながらはじめて手を繋ぐ水族館のことでもなく、『俗間』を表す。

俗間とは、俗人の住む世間、つまりは、現世のことである。
現世にいる以上、人はみなある程度、俗に触れ、俗の中で生きている。
そういうわけで人はみな俗人であり、俗物である。
俗物と言うと聞こえが悪いので、人は俗仏であるとも言う。

我々は今、俗仏として生き、俗仏として日々暮らしている。
その中でどう生きるかは、個人の業とさだめと環境と、何より自身の意思で決まる。

この5日の間、私もまた俗仏として仕事をし、酒を飲み、金を賭け、家を掃除し、スポーツを観戦し、また酒を飲み、乱痴騒ぎをし、映画をみて、仕事をするといったそれなりに忙しい日常をすごしていたが、時間を忘れるほど何かに集中したり、充実した時間を過ごすということを、私はあまり望んではいない。

夢中になれることを持つことや、時間を忘れるほど楽しい時間というのは、人が生きる時間の中で確かに幸福なことであると思う。
また、何も考えずぼうっと雲を眺めるような平和な時間というのも、とても貴重だと思う。

それでも今の私は、一瞬一瞬という時間が過ぎるのを、賽の河原で孤児が石を積み上げるように、一秒一秒を噛み締めて生きていたいと望んでいる。

けれでも俗仏としての私は、今この瞬間にすべてのことに感謝を抱くことはできても、次の瞬間には、別の感情を抱いてしまう俗仏である。
24時間365日、1年間で31,536,000秒という瞬間の中で、祈りを忘れてしまう時間というのがある。
私という存在はどこまでも俗仏である。

どんなに俗を避けて生きたとしても、俗仏である以上は俗に触れることなしには生きていけない。
であるならば、俗を俗として受け入れ、俗を俗として噛み締めて生きていくのが、俗仏の勉めであろう。
私は俗仏として俗間を生きる。

そして、人はみないずれ死に、俗間としての今世を去ることになる。
そのとき人はようやく俗を離れ、俗仏ではなくなり、ただ(本当)の仏となることができる。

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純文学作家(自称)