魂について

今日はスピリチュアル全開の話をしたい。
この話が絶対正しいと言うつもりはなく、こういうふうに感じている人もいるんだと思っていただけたら幸いである。


人間には、心とは別に魂というものがある。
心とは意識の作用であり、生命が進化の過程で獲得した脳と身体と環境により生じる形而下の現象である。
だから、私がいま握っている電車のつり革に、心はない。
また、心というのは一定ではない。
心は侵食されやすく、壊れやすい。
心はなぜ不安定なのかというと、それがまだ熟していないからである。
心には同調しようとする働きがある。
また、心は今生きている限りのものである。
通常、心はあるところに向かおうとしている。 
それは、魂である。
心は魂に似せて作られている。
魂とは何か。
それは、存在の因である。
だから、私が今握っているつり革には、魂がある。

今日はそんな、存在の因としての魂について考えてみたい。
私が今関心を抱いているのは、魂は成長するのか、ということである。
恐れずに書けば、生きている間にどんな立派なことをしても、人をどんな残虐な方法で殺害したとしても、魂は一定で変化はないように思える。
今ある人の倫理や道徳と、魂は別のところにある。
また、波乱万丈な人生や困難な人生を歩む人ほど魂のレベルが高いなどと言われたりするが、私の感覚では、魂にレベルなどはないよう感じている。
傷があまりなく綺麗な魂というのはある。
魂に傷が1つもないと感じた人は1人もいないが、傷が少ない方が、人生に不幸なことが起こりにくいように感じる。
そして、傷は傷で、その魂の個性である。
先ほどつり革にも魂があると書いたが、つり革に魂が宿るのはいつのタイミングなのであろうか。
プラスチックの原料全体で魂があり、そこからその破片がつり革に変わったのだろうか。
そうではないように感じる。
存在の因として、ここがまだ分からないが、人間がいなくても、あらかじめ一つのつり革になるという因があっため、このつり革になっている。
このつり革の魂と私の魂のどちらが魂のレベルが高いか、ということも、当然ない。
どちらも現世に遊びにきた、魂の欠片の一つである。
私はつり革に感謝と今生の別れを告げて、電車を降り仕事に向かった。

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純文学作家(自称)