懺悔と後悔と、ありがとう

僕はまだ生きてていいのだろうか。

もちろん、私に死ぬ気はなく、人間はどんな風にでも生きていいと思っている。
そうではなく、私もまた世の人々と同様なほどに自分勝手に生きているわけだが、暢気に歌を歌い、暢気に酒を飲み、暢気に仕事をし、暢気にブログなどを書いていて、はたしてそれで、良いのだろうか。

いいに決まっている。
いいはずなのに、私の中で何かがささくれだって、否を唱えている。
神様はなぜ私を、まだ生かしてくれているのだろうか。
生きることにネガティブになっているわけでも、暗い気持ちを抱いているわけでもなく、ただ生きていることに、疑問を抱いている。
思えば、悪いと言われることも、たくさんおこなってきた。

中学生のときに通っていた塾の帰り道。5~6人の同級生がペットボトルや空缶を一軒の民家の屋根や壁に投げつけるのを、私は素知らぬ顔をして一緒に帰っていたことがある。

とうとうある日、家主が怒り、同級生の何人かが捕まり補導されるのを、私は知らぬふりして過ごしていた。

焚き火が大きくなり、公園の樹木が燃えたこともあった。
そのときも、私は関係ない人間として扱われ、咎められることなく解放された。

同級生が盗んだバイクに一緒にまたがり、夜の町をパトカーで追いかけられたこともあった。
別の日、一人の先輩がハンドルの操作を誤り、ガードレールにぶつかり亡くなった。

感情に任せて誰かを殴ったり、自分勝手な言動で、誰かを傷つけたりもした。

大人になり、少しはましになったように思えても、私という人間の本質は、さほど変わっていない。

なぜあの日、僕は電話であんなひどいことを言ってしまったのだろう。

なぜあのとき、あの人の言葉を信じてあげられなかったのだろう。

なぜもうちょと、僕は寛大になれなかったのだろう。

愛が欲しいというあの人に、なぜ僕は、何もしてあげられなかったのだろう。

それでも僕は、まだ生きている。

138億年という悠久の時間の中で、宇宙は縮んだり広がったりしながら、今日も僕は、生きている。

同じ時代の精神を、みんなで共有しながら、明日も僕は生きるだろう。

たまたま同じ地球に生まれた多くの人に励まされ、僕はこれからも、生きるだろう。

誰かの植えた樹木に癒され、
誰かが作った道路を歩き、
誰かの作った歌を聴き、
誰かの言葉で救われる。

誰かの作った食事を口に運び、
誰かが発明した器具を使い、
誰かが編んだ服を着て、
誰かが建てた家に住んでいる。

誰かが許してくれて、
誰かが望んでくれて、
誰かが祈ってくれて、
僕は、誰かの笑顔を思い浮かべている。

たくさんの懺悔と
たくさんの後悔と
たくさんの感謝を抱いて
僕はまだ生きている
僕はまだ生きている

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純文学作家(自称)