先日、具合の悪くなった一人の乗客が、別の一人の乗客の助けにより、駅のホームに運びだされていた。
助けた方の乗客は、駅員を探してホームをうろうろしていたが、近くに駅員の姿はないようであった。
私は通勤中で、そのような場景を認識しながらも、足を動かせずに車内にいると、列車の扉はしまり、発車してしまった。
外出をすると、そのような場面に出くわすことが多々ある。
背の曲がったお年寄りが重い荷物を背負っていたり、点字ブロックの上に人知れず荷物が置かれていたり、街の中で一人で泣いている子どもがいたりする。
そのような場面に出くわしても、一種の気恥ずかしさからか面倒からか、自分が何かをしなくても何とかなるだろうと、ほとんどの場合は何もせずに過ごしている。
私が何もせずにしてきたことは、私が何もしなくても、恐らくすべて何とかなっていることと思う。
だが、それで良かったのかと問われれば、慚愧の念に耐えなくなる。
そのように、今この瞬間に起きていることに気づきながら何もしないこと、気持ちのだらしのないことを放逸(ほういつ)といい、仏教ではとくに、不放逸の教えとして精進を怠ることを戒めている。
不放逸は、過去においてその人が何をしたかということは問わない。
素晴らしい業績を持った方も、兆を超える資産を有する者も、感動する芸術を生み出した者も、過去に人を殺めた者も、等しく眼前に「いま」が現れる。
そのとき自分の利を越えて何ができるか。
それのみが問われることとなる。
それが「今を生きる」ということである。
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純文学作家(自称)
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