昨日もまたエッセイ(試み、または心見)をさぼってしまった。
心ではいろいろ考えているが、いざ言葉にすると思っていることの数パーセントしか表現できず、それも不本意な言葉となることが多い。
そんなときは黙っていた方が無難であるが、今日はあえて受難を甘受しようと思う。
エッセイとは思考の試論であったり、表現したものによって人や世界に対し何かを響かせる試みであったりする。
私の意図することは、人は何もしなくてもそのままで救われている(成功している)、ということであるが、この試みは挫折続きである。
人は生まれながらに成功している。
その根拠は各自で持つが、ある者は最愛の者やものとの出会いに生きる意味を見つけ、ある者は瞬間に潜む邂逅に成功を見つけ、ある者は精神の自由の中にこの世の仕組みに気づき、ある者は今ここにあることの満足に、感謝を見つける。
そうはいっても、今現実に、目の前に苦難に喘ぐ者がいる。
自身もまた、すべてがずっとうまくいくということはない。
そのように、今困っている者に対して、人は何を為すことができるだろうか。
人が人のためにできることは対処療法的な対応に限られているのではないだろうか。
医者が患者の痛みを取り除くことはできても、病の発生する原因となった生活を改善するのは本人次第であるように、不安を軽くすることや、目の前の壁を壊し易くすることはできても、他人が根本の問題を取り除くことはできない。
我々の不安の因果は、我々の内にある。
そして、多くの場合はまやかしの不安を、他人から与えられている。
人が人を不安にさせるとき、それは悪意があるか、必ず相手に利益がある。
不安をはらうには、そのような隷従から逃れなければならない。
あなたの痛みを利用する者に対し、拒否を示さなければいけない。
人は不安の中にいるとそれ以上の不安を恐れ、その道をずっと進むことを選択する。
そうすると、想像を絶する暴力や陰気な行いが日常的にあっても、人は自ら環境を変えることができなくなってしまう。
そこから脱するために、まずは少しでも不安を除いてあげることである。
制度的な不安を不要にあおる者もいる。
本当にあなたに必要な情報は、日常に無料で得られるところにある。
限定された有料の講演などに、あなたのための情報はない。
別のところにいけば、逆のことを述べた情報も、有料で得ることができる。
本当に人のために何かを伝えたい人というのは、限定せずに誰にでもその場で、必要なことを教えてくれるものである。
今、日本で事実をただ公表しただけで不当に殺害されるということはない。
得やすい情報だけではなく、対立するさまざまな意見を知り、その上で、あなたに必要なことを取捨選択していけば、制度があなたを不安にさせることはない。
問題は多々あるが、ベロ出しチョンマの頃より、政治は格段に良くなってきている。
他人が惑わす不安で、我々は我々の時間を割く必要はない。
未来に対することで、不安をうえつけようと画策する者もいる。
AI、通貨、食料などは将来に対する興味深いテーマだが、どれもあなたの生活を不安にさせるものではない。
人はまず、自身の身の回りに安心を築くことである。
ある高僧が言うには、人の運命というのは決まっているという。だが人は、その運命を自らの手で変えることができるとも言う。
だから、他人の想像した未来で不安になるのではなく、自らの手で、安心した未来を作れば良い。
そうしたら、また誰かのために安心を広げていく。
日常の些細なこと。
道にゴミが落ちていれば拾ってゴミ箱に捨てる。
降りる人のためにエレベーターを押さえてあげる。
電車からベビーカーが出ようとしていたら手を添えてあげる。
道を先に譲る。
雨に濡れている人に傘を差し出す。
誰かの訴えに耳をかたむける。
そうした日常に、人々は安心を築いていける。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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