事象という果には、それが起こる単一ないし複数の因が存在する。
つまり、結果があればそれに対する起因があるということである。
例えば昨朝、私の財布の中には1万円札が1枚入っていたが、帰りがけに3000円の本を1冊買い、1000円のウィスキーを7杯飲んで帰宅すると、今朝には財布の中が空であったという結果が生じている。
薬を飲むという因があれば作用と副作用があり、暴言を吐けば非難される。
上流に雨が降れば下流に流れる。
因果とは至極あたり前のことである。
そうであるはずなのに、我々は因と果が合わない行動をしたり、因果を見誤ることがある。
勝負事に勝つという果を求めながら、景気づけに一杯飲んでしまう。
試験に受かるという果を期待しながら、雑事ばかりに気をとられてしまう。
楽しい毎日を過ごしたいと思いながら、楽をしてしまう。
幸せになりたいと願いながら、他人が傷つくことに無頓着だったりする。
因果を正しくすること。
勝つための技術(心の技術も含む)を習得し、本番で発揮するという因によって勝利という果となる。
試験に受かるという果を求めるのなら、試験に受かるだけの勉強をするという因を作る。
お金を得るという果が欲しいのなら、お金を得るだけの因を作れば良く、健康でいたいのなら、健康でいるための因を作ることである。
そうはいっても、人間には自覚できない因により、求める果とは違う結果が生じてしまうことがある。
権力者による横暴な行いで、練習場所をとりあげられてしまう。
勉強をしている場合ではない事件が、身の回りに起きてしまう。
原因不明の突発性の病気に、突然かかってしまう。
そういったことは、果が禍となり表れるまで当人には分からず、その因を見つけることは容易ではない。
そのため人は、果を誰かのせいにしたり、神や悪霊が為すことにしたり、政治のせいにしたりすることがある。
だが、そのような事前に把握し対応することが難しいことにも、必ず因となるものが存在する。
原初の頃に遡れば、138億年前の因により生じた物質が組織化し、やがて有機生命体が誕生し、我々人間が生きていることは、因果の結果である。
人間の身体が生命を維持するために痛みを感じるのも因果の結果であり、人間の心が恐怖や阻害により痛みを感じるのもまた、因果の結果である。
そのようにして人の為すことの因を探っていくと、人が悪事を為すのは彼が悪だからではなく、彼自身の正義を通すという因により、他人にとっては悪という果が現れる。
政治が腐敗しているように感じるのは、彼らにそれを為させる因を知らないからで、特定の権利団体の代理をなす政治家にとっては、それを為すことが、正義を実現するための因なのである。
人がときに人でないような振る舞いをするのにも因があり、人が人の心を宿すのにもまた、因がある。
だから、因を知れば大抵はおのずと果が知れる。
だが、人間は因果を乗り越えられる存在である。
今の延長で成果を望むなら、正しく因の積み重ねを行うことが、正しい果実を生む。
そして、苦しいことがあったとしても、それを因とした果を生じさせるのではなく、別の結果を生じさせることが、人間にはできる。
人類として受け継ぐべき因と個人として大事な因は大切にし、あなたにとって不要な因は、それで生じるであろう因果の鎖を、あなたの手で断ってしまうことである。
そうして、果はまた何かの因となる。「禍福は糾える縄の如し」という言葉があるように、ときには結果が災いに思えることがあるかもしれない。
だが、それは新たな福を生む因であることもある。
それはすべて、自分しだいである。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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