動機が先か、行動が先か

人が何かをする、ということにおいて、そこには2つの態度のうち、どちらか一つが隠されている。
動機があり、それに突き動かされて行動する、という態度と、風の吹くままに動機なく行動をする態度と。

極論をいえば、人もまた悟り猫のように、動機やすべての価値判断を越え永遠の命を持って生きるのが私の理想である。

だが、借り物の身体と借り物の命を与えられて生きる我々は、借り物の時間の中で、本物の夢をみることを善しとする存在である。
そういった実存としての人間は、仏作って魂入れず、という言葉があるように、動機があることのほうが、その行動は有意義なものとなる。
昨今の「動けば勝ち」という風潮も、魂を入れることでより意味のあるものとなる。
慌てて考えなしに行動しても上手くはいかず、例えそれでたまたま成功したとしても、昔の剣豪にいわせれば、それは偶然の結果生まれた必勝とはほど遠い外道の行い、ということになる。

この地球に有限の時間の中で為す人間の行いとしては、動機が事を成す上で重要となる。
利権団体の代理をする政治家も、莫大な資金を背景に世界を保守する金融屋も、都合よく神を語る私欲の者も、みな明確で強い動機を持ち合わせている。
現代人の多くは、彼らに追従するか反抗するかで、成功という名の果実を漁り、人生を全うする。
そのような地球規模の闘争で彼らが本当に恐れるものは、同じように強い動機を持って挑んでくる挑戦者よりも、動機なく自由に他者のために行動する徒である。
そのような人間は人類全体からみたらわずかな数しかいないが、いずれ地球はそのような人間の棲み家となるであろう。

そうは言っても過度期である現在においては、動機をもって利を求めることも、否定すべきことではない。
むしろ他者の動機を理解し、それをよく活用することが、よりよい生活を送ることになる。

さて、抽出的な概念の上に安楽を築いていても私以外の誰の利ともならないので、次回からは、IPOに当選するにはといった具体的な行動の話をしていきたい。

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純文学作家(自称)