善悪の彼岸で

ニーチェは著書『善悪の彼岸』で個々の人間が真理として抱いていることを相対化してみせた。
そして、より強いものの言説が真理という衣を着て残る、というのである。

そうすると、現代の人間社会は10万年の歳月をかけ「力への意志」の帰結で生じているわけであり、何らかの価値の判断をした人間は、この闘争の参加者となる。

その結果、社会にはルサンチマンとニヒリズムが横行し、一部の勝者には個人的幸福を追及できるという【真理】がもたらされることとなった。
ニーチェの批判は現代でも有効であり、多くの示唆を与えてくれる。

では、人はニーチェのいうように、より良く生きるという「力への意志」を持ちつつ生きるしかないのだろうか。

かつて、ある修行者が厳しい修行の末に善悪の彼岸を越えた例は、あるにはある。
何年も続く苦行の末に、その男は一口のミルク粥を口にする。
意識的だったか無意識だったか分からないが、その結果、男は価値判断の彼岸を越えた。

では、我々も彼と同じように、善悪の彼岸を越えたら良いのだろうか。

恐らく、彼と同じ手法で善悪の彼岸を越えて生きる人間は現れないだろう。
我々は、己の価値判断を持ちつつ、社会または個々人の道徳の系譜を内包し、善悪の狭間で生きている。
そのようにして我々が生きるとき、ルサンチマンやニヒリズムに陥いらないためには、いかに生きたらよいであろうか。(この場合の「よい」は私の価値判断に基づく)

ニーチェが提唱するのは、一部の勝利者と同じように個人的幸福を追及することである。
そうすれば、自らの言動にルサンチマンの影が潜むことはなくなる、というわけである。
その言動にルサンチマンが含まれているかいないかは、その結果で生じた響きから分かる。
人は自らやることには、感謝の響きが含まれている。
つまりは、自ら感謝できることのみをするのが良い、ということである。
価値の判断を自分で決め、やりたいことやる、という日常を送ることで、人は寛容を取り戻す。

そうして日常を積み重ね、あらゆることに感謝が宿り、発する言葉のすべて、吐き出す息、切った髪の毛の先端にまで感謝が溢れるようになったとき、内在した価値というものの意味は崩壊し、彼もまた善悪の彼岸を越えた存在となるであろう。

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純文学作家(自称)