日常を生きるために

日々感謝に包まれて常に満足を抱いて生きることは、現代の地球に生きる我々にとって可能なことだろうか。

ハレとケ、そして穢(けが)れという柳田民俗学が提唱する生活の循環の中にヒントがないか探っているが、穢れ(褻枯れ)というものから避けられた人は、今のところ覚者以外は存在していない。
私にとって、それでは不満足である。

今の時代に生まれ生きることは、多くの人にとって自身の意思を超えて成り立っているものである。
そうして生まれ生きる中で、自身の意思を超えて、不条理なことが人には訪れる。
自分であれ他人であれ、死というものを誰もが経験する。
現代に生きる我々は、そこに不条理を覚えることがある。
なぜあなたは死んでしまったのだろうか。
そもそもそのような不条理に対し、人はそれでも日々感謝に包まれて常に満足を抱いて生きることを善しとするのだろうか。
例えば、645年に藤原鎌足により暗殺されたとする蘇我入鹿に対し、現代の我々はそこに不条理を見ない。
また、今から1000年前に起きた出来事。
西行は反魂により死肉から怪物を作り、あまりの醜さに高野の山にカレを捨てたが、やはり現代の私はそれを不条理だとは感じない。
それは、すでに歴史の条理となっているためだ。
であれば、今から1000年後、この西暦2000年代という時代に地球環境と人間関係により病気となる人間が増えたのも、社会生活の中で人間が狂気を宿し、狂刃を人に振るような不条理が起きたことは、やはり条理となっているだろう。

目の前に起きた不条理も、やがてはすべて条理となる。
であるならば、今はできなくても、人は日々感謝に包まれて常に満足を抱いて生きることが可能であろう。
カミュが言うように、人間は不条理に抗い続け、いつか不条理を受け入れたとき、日常の中で条理を見る。

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純文学作家(自称)