「魔がさす」という言葉がある。
自ら招いた事件・事故の言い訳に、ときには信じ難いことをおこしてしまった人への驚きのために、人はその言葉を発する。
おそらく、常に自分を正しく持っていれば、魔が入り込む余地などないのだろう。
魔に魅いられるときというのは必ず、自分自身に弱さがある。
今日はそんな、か弱き人間のために心に効く言葉を書いておこう、というわけではない。
魔が差した自らの反省のために、以下を綴る。
なお、社会通念上ふさわしくない表現やワイセツな文章もあるが、表現を尊重し原文のままとする。
1章
先週のことである。たびたび犯す失敗を私はまた行い、コンクリートの地面を枕に、眠ることとなった。※1
比較的安全な新橋の夜では失う物も身ぐるみをはがされることもなかったが、翌日は会社を休み、それから5日間、何も創作を書けずに過ごしていた。
※1 経験から路上で泥酔して寝ても身の危険や物を取られないランキング(関東版)
ワースト1 新宿歌舞伎町
ワースト2 新宿ゴールデン街
ワースト3 南越谷駅前
ワースト4 柏駅西口
ワースト5 溝の口ドンキ周辺
ワースト6 大宮駅東口
ワースト7 船橋
ワースト8 上野駅動物園前口
ワースト9 伊勢崎駅前
ワースト10川崎
さて、そうして何も書けず布団の中で惰眠を貪った後も活力が湧かず、畳の上に正座し、瞑想の中に沈み込もうとしても、まったく入っていかないまま数日を過ごした。
これは重症である。
試しにギャンブル場へ出かけ、2、3発パチンコ玉を跳ねたところで大当たり。3玉が20000玉ほどに膨れたが、喜びも何も感じなくなっていた。
なるほど。人間の運と言われるものと、精神の状態というのは互いに干渉しないらしい。
台はその後も騒がしく光っていたが、つまらないので換金もせずに店を出た。
日差しが熱い。感情は細っていても、汗は変わらず垂れ落ちる。
たまらず、行くあてもないのに電車に乗った。
誰か、何でも話せる友人にでも会いにいこうと考え携帯電話を取り出すが、気楽に会える知り合いなどはいないと悟った。
連絡先に記録された名前の数は両手で足りる。
かつての剣友はみな散り散りになり、学生の頃から親しくしていた吉川君は長野に住んでいる。
勝という名の、かつて裸で抱きあった男は行方知れずで、心の友の岸浪さんはすでに結婚し子をもうけ、浜松に住む女が頭に浮かんだが、いきなり行ったら迷惑になるだろう。
それに、もともと友だと思っているのはこちらだけかもしれない。
仕方なく電車を降りて、昼から開くひょっとこ模様の暖簾をくぐる。
日本酒を徳利で注文し、箸のあてに山葵(わさび)と生姜を頼む。
山葵も生姜も確かに美味い。
喉に流れる酒もかなりの品だ。
だが、感情には一つの波も湧き上がらない。
舌に感じる美味さと心に生じる感情もまた、互いに影響しないということだ。
四合を空にしたところで店を出た。
日差しはちっとも緩んでいない。
次はどこにいこうか。
いっそこのまま太陽が地球を丸焼きにしてくれたらいいなどと、身勝手な考えも浮かんでくる。
俺はいったい何をしているのだろう。
文学が書けないぐらいでこの世の終わりを望んでいるのか。
それでも、TikTokを撮りながら車道に飛び出る勇気もない。
『山月記』に登場する隴西の李徴のように、一匹の獰猛な虎になれたらどんなに楽だろうか。
だが、今の俺にはそんな性情も、獅子の咆哮もありはしない。
心の広陵にはただただ白い壁面がどこまでも続いている。
もはや垂れ落ちる汗を拭うのも面倒になり、川沿いの毛虫の繁った桜の幹に寄りかかりながら、自身に問答を投げかける。
俺は女が欲しいのか。
いや違う。
俺は金が欲しいのか。
いや違う。
名誉か。
違う。
真理か。
違う。
尊敬も快楽も満足も共感も安心も、どれも違う。
心には穴があるのに、それにはまる言葉がない。
いよいよ自分が分からなくなってくる。
やがて疲れ、何も考えないことにした。
どれぐらい時間がたったろうか、喉に渇きを覚え目覚めると、陽は暮れはじめていたが、大気の熱気はいくらも下がっていないようであった。
ズボンに落ちた毛虫を払い立ち上がり、またあてもなく歩きはじめた。
これが二十歳の頃であったなら、別れた女の家にいくだろう。
昔話に花を咲かせて、さんざん俺も遊んできたが、お前を一番好いていた、などと涙を流して抱き合えば、情熱的に結ばれることがあるやもしれぬ。
むさぼるように互いに口を合わせた後は、自然とキスが身体に降りていく。
首筋を通り、震える肩に唇をなぞる。
硬く膨れた胸の先端に指先が忍び、荒くなった口でまた二人は息を合わせる・・・
刹那的な情動では男も女も行為の後で長く満たされることはないが、死ぬ理由からは遠ざけてくれる。
だが、今はそんな情動もすでに枯れはててしまっていた。
どこへいこうか。
どこへいこうか。
死に場所を探しているわけではない。
だが、生きる場所も見つからないのであった。
2章
空腹と喉の渇きを癒すため、西洋料理のレストランに入った。
私の姿を見た若い女の店員はひきつった顔を見せたが、すぐに笑顔になり、私は壁際の奥の席に案内された。
トマトベースのパスタと名前の知らぬワインを注文する。
人間はなんでものを食べるのだろう。栄養を外部から摂取しなければいけない身体の構造は、人という存在を他に依存することで成りたさせている。
そんなことをぼんやり考えていたが、今の私にはどうでもよかった。
料理が運ばれ、口に運ぶ。
グラスにワインが注がれ口にに運ぶ。
そんなことを数回繰り返し、皿の上は空となった。
会計をすませ店を出る。
何か大事なことを忘れている気がしたが、それももはやどうでもよかった。
陽はすでに暮れていた。
帰宅を急いでいるのだろうか、スーツ姿の男が足早に通り過ぎていく。
男はどこに向かっているのだろうか。
5日前は自分もスーツを着て会社で働いていたことが遠い過去のことのように思えてくる。
私は呆然と立ちつくしていると、塾の帰りだろうか小学生ぐらいの集団が自転車で走り去っていく。
制服を着た少女。買い物帰りの主婦。ゆっくり歩いていく老人。地面の匂いをかぎながら、それでも先をいく犬。
誰もがみな、いく先を持っている。
私はどこへ向かえば良いのだろうか。
後ろに視線を感じ振り向くと、女が一人怯えた顔で立っていた。
私服姿の、先ほどレストランで私を案内してくれた女であった。
店の灯もすでに消えている。
私はただその場から去るために再び前を向いて、歩きはじめた。
誰でもよかった。
事件の後にニュースでよく聞くフレーズが頭をよぎる。
誰でもいい。
本当だろうか。
誰でも。
胸に何かがつかえていたが、それが何か分からぬまま私は闇夜の中を進んでいく。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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