波長に関する仮説(または一つの心的表明)

君が笑うから僕も笑う
君が泣くから僕も悲しくなる
君が嬉しいと僕はもっと嬉しくなって
君の存在が僕を僕にしてくれる


恥ずかしいポエムからはじめたが、今日は人間に関する一つの仮説を考察してみたい。
まずは実証されている科学的事象から振り返る。
以前に載せた『宝石』の話でも触れたが、すべての物質は、その物質を構成する粒子(ミューオンなど)が常に動いているため、物質自体が振動しているといえる。
振動するということは、空間中に波を作るということであり、その波の長さを波長と言う。
人間の脳もこの波長を変化させることで人間に感情を表現させている。

『宝石』で書きたかったことは、すべての物質は、万物の産みの親である宇宙のエントロピー増大による、熱的死に抗うために、物質自身が組織化し熱をできるだけ維持しようと振る舞い、そして人間もその延長線で生まれ、物質のエネルギーを越えた、想像のエネルギーを宇宙に生むようになったという物語である。
『宝石』はいつかSF小説として描きたい。

さて、波長の話である。
現代には波長を利用したサービスが多々ある。
理学療法には電磁波の波長を利用した医療行為があり、直接癌細胞に超音波を当てて破壊する内科の機器もある。
携帯やテレビの電波には法律で定められた波長があり、電子機器は電子エネルギーを決まった周波数で得ることで動いている。
サービスでなくても自然界にはf分の1という素晴らしい揺らぎがあり、これもまた波長である。
そもそも音や光の伝わり方が波長であり、波長の概念が及ばない事象はないと考えられる。
『彼とは波長が合う』なんて言葉もあるが、これは実際に、エネルギーとしての波長が似た者同士だと言われている。
スピリチュアル界隈では、波動などといったりもするが、人間は一人一人波長を発している。
波長をスペクトル(波長成分)でみると色でみることができ、波長を音波で聞くと、音となる。そして、人間の発する言葉もまた一つ一つ波長がある。
人間の創造する芸術というのは、波長を発することであるとも言える。
画家はキャンバスに色という波長を描き、作曲家は波長を組み合わせてメロディを作り、文学者は言葉という波長を物語にする。
そして人間はその波長に感動するのである。

波長は良い面ばかりではない。
一人一人ではたいした悪事を働かない人であっても、同じような悪意の波長を持った人が集まると、波が大きくなり凄惨な事件を起こす。
人間も物質も似た者同士が集まるのは現実が証明しているが、これも波長が求愛のダンスのように両者を結びつけるからである。
ソルフェジオ周波数などはそれを利用した試みであり、ある特定の波長が人間に何かをもたらすことを期待するものである。
セミナー系の方がいう引き寄せの云々といった話や天国言葉といった話も似たような話である。

だが、現実世界はそれほど単純な構図とはなっていない。
波動が低いと言われるような、常に否定的な言葉をいったり肯定感の低い人が社会的に成功を納める場合もあれば、謙虚で清い心を持った人が、不遇な人生を送る場合もある。
人間生活と波長にはやはり関係性はないのであろうか。

ここで一つの仮説を提唱する。
人は自分の波長ではなく、他人やものの発する波長に影響を受ける。
この仮説が真であるとすると、悪意をもった人ではなく、悪意を受けた側に影響がでる。
善なる人はその人自身ではなく、周りの人を善にする。
感動はその人自身を感動させるためではなく、感動を共鳴し、他者を感動させるためにある。
感情を抑えるような、つまりは波長を低くする人とは関わらず、波長の高い人と接するようにする。
これが生活をよりよいものにしていくだろう。
ちょっといやらしい行動だが、今日から積極的に仮説の検証を実施する。

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純文学作家(自称)