言語の起源には諸説あるが、物事の事象を説明することより個人の内的な事情を表現することを得意とする言葉の性質からして、言葉は内なる感情の叫びから生まれたのだと私は考えている。
原口統三が『二十歳のエチュード』で書き残したように、「自己の思想を表現してみることは、しょせん弁解にすぎない」のかもしれない。
芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」にもまた、それを聞いている自己の存在が静かに横たわっている。
「地球は青い」という表現には、それを見たという自己の存在表現であり、「りんごがある」という表現には、「私はそこにりんごがあることを知っている」という断定または推測の自己証明でもある。
ほとんどの言葉は自己の存在証明だと言える。
であるから、言葉を自己の内発からではなく、他者に対して使う場合は、よほどの注意がないと、間違いとなる。
最近よく聞く言葉に、「他力本願」なる言葉がある。
これこそは、他者に浴びせることが相応しくない言葉の代表でもある。
まず、本願とは仏の発心のことを指す。仏様の「私はすべての人を救う」という御心のことである。
つまり「自分ではどうしようもない人でも、他力、つまりは私を頼ってください。」という阿弥陀如来の自己証明なのである。
仏さまの心に対し、他人がどうこう言う問題ではないことが分かるだろう。
「他力本願」なる言葉を使うのは、その言葉の響きだけは知っているという、浅はかな自己表現でしかなくなってしまうことに注意しなければいけない。
同じように、最近ある方の投稿に素晴らしいものがあったので引用させて頂く。(山川さんありがとうございます)
会津藩では、6歳から9歳までの藩士の子供たちが10人前後でつくる「什 (じゅう)」という集まりがあり、藩士の子が守るべき掟として、什の掟というものがあった。
その掟の最後に「ならぬことはならぬものです」という一文が掲げられている。
これを、他者目線で読んでしまうと、だめなものはだめだという、ただの心の硬い解釈となってしまう。
この場合も、言葉は自己表現なのである。
子どもたちが自発的に、守るべき掟を守りますという誓いなのである。だから会津の人間は逞しい。
そのことに対し、他者が他人事で何かを言うことは、お門違いなのが分かるだろう。
言葉というのはおよそすべて、発話者の内的事情を含んでいる。だから口元を隠すのは本心の隠蔽であったりするのだが、私も他人の事情にあれこれ言っているときではない。
文月に懸ける言葉をすっかり忘れてしまった。
人の言葉を酌まず、己を省みないと人は廃れる。
人は己のことに心懸けるべきである。
私も反省する。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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