「願う」と似た言葉に、「祈る」という言葉がある。
最近、両者の違いに興味を抱いている。
七夕の短冊に書くのは祈りだろうか、願いだろうか。
神社の絵馬に書くのは祈りだろうか、願いだろうか。
年のはじめに手を合わせ「人類が平和でありますように」と唱えるときのそれは、祈りだろうか、願いだろうか。
人類が言葉を話すようになったのは、諸説あるが、最も最近とする学説では10万年前からで、最も古いものでは、ホモ・ハビリスが生きた240万年前と主張している。
短くみても、人類は10万年以上言葉を発し続けている。
それでは、人類が祈りをはじめたのはいつからだろうか。
言葉がなければ願うことや祈りは生まれないのだろうか。
おそらく、そんなことはない。
言葉がなくても、人は何かを欲求する。
それが願いとなる。
願うとは、現実とその願う先との間に、距離があることを示している。
お金が欲しい、安らぎが欲しい、試合に勝たせてください、芥川賞が欲しい、そのように人が願うとき、願うものはその人の手元にはない。
そして、願うことというのはたいてい達成されない。
その距離が自身の力では縮められないからこそ人は何かに願う。
お金を自身の力で手に入れられる人は願ったりはしない。
勝ち方を知っている人は願ったりはしない。
願うより先に行動して達成している。
では、祈りはどうか。
祈りもまた、言葉が必ず必要と言うわけではない。
祈りは言葉よりももっと原初的な心の所作だ。
では、祈りが通じなかっり、祈りが叶わないと言ったりするのはなぜだろうか。
それは、先ほど書いたように、願いだからである。
祈りとは、本来願いとは別のものである。
人は10万年以上前から祈りを捧げている。
祈ることが何ももたらさない心の慰めだけであったならば、人は10万年も、何かを祈り続けたりはしないだろう。
祈ることは人に現実的な何かをもたらす。
それは何か。
ここからは仮説の話となる。
人間の心というものは、何かを介してつながっているのではないか。
人が誰かに祈りを捧げたとき、それは直接ではなく、間接的に相手に何かをもたらす。
祈りの力が大きい人は人類全体を思って祈りを捧げている。
それが人類全体に影響を及ぼす。
私のような凡夫もまた、祈るときがある。
しかしそれには欲望が混ざっている。
願いをなくし、欲望をなくし、最後に残った祈りのかけらのようなものを天に捧げる。
それがきっと、相手に届く。
祈る者は心が綺麗なのではない。
人間誰しも欲望を抱く。
その欲望を少しずつ削いでいく。
それは心の技術が生み出した結晶である。
捧げられた祈りに不純なものはない。
私の祈りが誰かに届くことを、祈っている。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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