結局、帰宅するのに朝までかかってしまった。
地蔵菩薩の真言を唱えていると、自分も同じく誰かを救えるのではないか、そんな錯覚を覚えてくる。
それで昨夜は歩きながら、迷える魂はいないかと念じていたところ、いつのまにか本来歩くべきルートから外れてしまったようである。
23時ぐらいだったろうか。道が違うのに気づかず歩いていると、突然、黒い影が横に見えたと思い振り返ると、塀の前に菩薩が祀られていて、名称のかかれてない建物にぶつかった。
こんなところに地蔵菩薩があるのか、と思いながら、菩薩の前に行き、オンカカカと唱えはじめると、再び背後に気配を感じたのである。
慌てて振り向くと、スーツ姿の女性が後ろに立っていた。
なんだろうと思いながらも私は早足でそこを過ぎると、その女性は熱心に地蔵菩薩に手を合わせていたようである。
私は気にせずスマートフォンで現在地を確認し、そこではじめて、道の間違いに気づいたのだった。
そして先ほどの場所が、江戸時代の処刑場であり、先ほど手を合わせた地蔵が、首切り地蔵という名の地蔵であることを知ったのだった。
いつのまにか、時刻は12時を過ぎている。それでもこのペースで歩いていけば、3時ぐらいには帰宅できる算段であった。
北千住で荒川を越え、橋の上から見た月は実に綺麗であった。
だが、この辺りから私の足にも異変が生じはじめていた。
足の裏に豆ができ、大地に足裏をつける度に、僅かな痛みを残していく。
やはりスーツや革靴は歩きにくい、そんなことを考えながら、それでもあまり深くは感ず歩き続けていた。
足の裏の豆には慣れている。剣道をやっていた頃は年間何度も皮が剥がれた。
次の皮ができる前から摺り足により皮が剥がれるので、いつのまにか足の裏はゾウの足ように固くなるのである。
そんなわけで、豆が潰れるなら潰れてしまえという気持ちを抱きながら、小菅の拘置所や西新井大師をこえて、いよいよ東京の東の端である、谷塚までやってきた。
ここを過ぎれば草加市、埼玉県の入口である。
両方の足裏にできた4つの豆はとうに潰れていたが、歩けないほどではない。
痛みをかばいながらも真言を口に歩く。
草加駅を越えて、綾瀬川を右手に見ながら歩く。
この辺りからだろう、腰と股関節に痛みが走りはじめた。
そう言えば、持ちやすいようにビジネス鞄を背中にしょっていた。
それが北千住ぐらいからやたらと重く感じていたのだが、気にしないようにしていたのだった。
オンカカカと口にだしながら、左足を前に出す。
すると左の股関節に痛みが走る。
オンカカカと口にだしながら、右足を前に出す。
すると右の股関節に痛みが走る。
一歩一歩が苦痛になっていた。
それでも歩かなければ進めない。
タクシーを呼んでしまおうか、だとか、最寄りの駅に行き電車が走る時間までどこかで休もうか、そんなことが頭をよぎる。
終いには、飲食店に並ぶ自転車を目につけ、1台しっけいしてしまおうか、などという妄想が浮かび始める。
人間の精神は肉体の痛みにより弱くなる。
己の未熟さを噛みしめながら、それでも何とか、歩くことはやめずに歩を進めていく。
残りはあと6㎞ほどである。
歩きはじめたときは6㎞を1 時間もかからず歩けたのが、いまや1㎞を1時間ほどかけて歩いている。
綾瀬川の対岸先から朝日が登ってきていた。
ジョギングする中年男性、若い男女などが、私の横を走り去っていく。
腰がいよいよ動かなくなりそうであった。
オンカカカ。
動いてくれ。
オンカカカ。
頼む。
オンカカカ。
動かなくなった腰を手で押し、肉体を騙しながら歩いていく。
オンカカカ。
オンカカカ。
オンカカカ。
私は何で地蔵の真言を唱えながら歩いているのだろう。
この真言の意味は「オーン、ハハハ」である。
オーンを「お願いします」と訳す解釈や、本来はオーンの響きには般若といわれる叡知であったりするが、意味のない響きだとも言われている。
そして、ハハハは、文字どおり笑い声である。
つまりは、オーンという意味のない音を響かせて、ハハハと自分で笑っているのである。
と考えると、何だか自分のやっていることが笑えてきた。
オーンカカカには意味があるかもしれないが、私がこうして歩くことには意味はない。
12時間歩いて分かったことはそのことである。
それは贅沢な無駄であった。
12時間、何にも邪魔されず、さまざまな思考を巡らせることができた。
東京や関東の道端に存在する、さまざまなお地蔵さまをインターネットの地図上に示す。需要はないだろうが、そんなことも実現したくなった。
ようやく家が見えてきた。
いつのまにか、腰が動くようになっている。
オンカカカ。
まことに面白い。
他の人にはまったく面白くないかもしれないが、それでもいい。
そうして朝7時、私は無事に帰宅したのだった。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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