「特別の愛で ふるえて欲しい 四十一歳の春だから♪」
昨日日曜日。
桜散る白いテラスの午後3時、テレビから『元祖天才バカボンの春』の歌が聴こえてきた。
子供の頃に何となく聴いていた曲が、こんなにも胸に響くものだと気づき、思わず涙する。
赤塚不二夫さんの歌詞と、渡辺岳夫さんの曲が見事にはまっている。
さて、今年が始まり、3ヶ月が過ぎた。
こうして指を折り月日の流れを感じながら、ときに生活の雑事に追われ、ときには花鳥風月の移りにかまけているうちに、何もせず年を重ねていく。
はたしてそれで良いのだろうか。
考えていても仕方ない。
私はいつもの通り図書館に行く。
ということで、今週の本。
「破天」
恥ずかしながら、私はつい先週まで、インド仏教を再興させたアンベードカルと、彼の意志を継ぎ、今やインド仏教の師となった日本人、佐々井秀嶺上人の名を知らなかった。
未だ続く悪しき慣習として君臨するカースト制度。佐々井秀嶺上人はそれを打ち砕くため、カーストのさらに外にいる人口の30%を占めると言われるダリット(不可触民と書かれている。この言葉もひどいが)に目覚めを呼び掛け、仏教の慈悲をインド全体に広めようとこの21世紀に奮起している。金も地位も得ず、まさに命をとして人々のために声を発し行動している。
こんな人はここ1000年の地球上で誕生しなかったのではないか。
彼を信奉する者は、今インドで一億五千万人を越えると言われている。
ちなみにインド独立の父と言われるガンディーはカーストが高く、カースト制度の維持を固持したことでも有名である。
「人は生きる」
先週に続き、東京大学大学院教授矢作直樹氏の著書である。ベストセラーとなった「人は死なない」の延長として、では人はどう生きるのか、ということを語る本である。
「はじめての行政法」
何度も言うが、もう4月である。そろそろ行政法の勉強をはじめよう。
「宇宙を支配する6つの数」
広大な宇宙に悠然と存在する数がある。例えば原子核がその形を保つために働く0.007という力。
これが100分の1弱いだけでもすべての物質は存在できなかった。
いったいこの絶妙なバランスで成り立つ宇宙はどのようにして生じたのだろうかと唸らざるおえない。
「禅と脳」
『セロトニン欠乏脳』を著した有田秀穂博士(東邦大学医学部生理学教授)と、僧侶であり芥川賞作家である玄侑 宗久の対談。
呼吸法によりセロトニン神経を活性化させ、鬱やパニック症などを改善できるという話はなかなか興味深い。
「合気道のこころ」
現代合気道の祖である植芝盛平先生の息子であり、合気道の継承二代目である植芝吉祥丸先生の著書である。
川越にある合気道の道場で二回だけ合気道の稽古をさせて頂いたことがあるが、ご縁がなくなりそこへは顔をだせなくなった。
いつかまたどこかで合気道を習いたいと思っている。
「美女とは何か」
難しい問いである。かの佐々井秀嶺上人でさえ、女に迷い流されたことがあった。ただ一つ言えることは、男は女に弱い。これも宇宙の法の一つであろう。
「なぜ人はニセ科学を信じるのか」
いわゆる超常現象と呼ばれるものを、人はときに盲信してしまう。例えば、スピリチュアルヒーラーとして人々を癒すことは間違いではないが、その思想、行動が排他性を帯びたとたん、思わぬ惨事を招くことになる。
だからといって、科学的でないことを理由に起きた事象を認めないのもまた、心の貧しいことである。
「山野草の名前1000がよくわかる図鑑」
最近野花を頻繁に見る。無学な私はそれらの花の名を知らぬため、ただただ眺めるだけである。どこかの坊主のように、花の名とかけて、人の生きる道を示せるような、そうな人間になりたいものである。
「生産性を上昇させる社会」
民主主義の発展によるラーニング・ソサイエティの構築がイノベーションを起こし、全体の生産性を上げるという経済学の話である。
長期的にはまさにその通りだろう。
そういう意味では、このままでは日本の経済的発展は厳しい。
だが、経済なんて発展しなくても、より良いソサイエティは築けると、私は考えている。
結局、本を読んで何かが変わったり、誰かを救ったり、悟りにたどり着く、なんてことはないのだろう。
だが、冒頭にたずねた「何もせず年を重ねていく。はたしてそれで良いのだろうか」という質問には、改めて応えたいと思う。
肯。
誰もが、何もかも認めて精一杯前向きに人類のために尽力する、なんてことは当然ない。
14歳で社会に絶望し自らの命をたった魂がある。
20歳で自身に絶望し自らの命をたった魂がある。
結ばれた小さな命が叶わず、母体の中で命を亡くした魂がある。
それらもまた是とすることは、多くの批判があるかもしれない。
それでも私は彼、彼女が是であることを信じ続ける。
ある者は怒りから彼を非難し、ある者は無知から彼を卑下し、ある者は悲しみから彼を可哀想に思うだろう。
そのような眼差しの中では、彼らの魂は救われない。
だから、せめて私だけでも、この世界に一瞬でも存在したその魂に感謝し、是を祈る。
ときに怒りの化身となった魂が私を道連れにしようと試みることもある。
ときに慟哭の修羅となった魂が私の魂を食さんと牙をたてることもある。
自身に向けられたそれらの行為もまた是となるよう、私は是を唱え続ける。
私はまだまだ弱い。怖いものからは逃げ、手に負えないものは手離す。
すべてを「これでいいのだ」と優しく微笑むことができるまで、私は自身を鍛えたい。
一説によれば、バカボンとは梵語の「薄伽梵」(ばぎゃぼん)のことで、仏のことだと言われている。
私にももうすぐ41歳の春がやってくる。
バカボン(ばぎゃぼん)のように惑わず自身の道を、それが何にもならないとしても、歩みたいと思う。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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