明日世界が終わるとしても、私は今日リンゴの木を植える

16世紀に生きた宗教改革者、ルターの言葉である。ルターは自分が死んでも未来の糧となる生き方を選択し、実際にそのように生きた。
ルターはこうも言っている。
「今でなくても」が、「やらなかった」になるのは実に早い。

数年前、企業経営者であったジョブスも公演で似たような発言をしている。
「もしも今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか?」。NOと答える日が何日も続くようであれば、何かを変えなければならないということだ。」 

もともと西洋には古代ローマの時代から「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉があり、「今を生きる」ことが尊ばれている。

 東洋にも似たような言葉がある。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」
孔子は政治に正道を求めて諸国を放浪したが、各国の統治者からはなかなか理解を得られなかった。
それでも孔子は、死ぬまで理想の具現化を諦めなかった。

それらの生を積極的に肯定した生き方に対し、一見、生を否定するような死生観が、日本にある。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
人の生は幻のように儚いものだ、と言う敦盛の舞である。

人生の終焉に臨む態度は、およそ二種類ある。
一度きりの人生、死ぬまでとことん精一杯生きよう、とする態度と、どうせ死ぬのなら何をしても同じだ、という態度と。
おそらく、誰もがその間の揺らぎの中で、日々を生きている。
はたして人は、どちらの所作を実践すべきなのだろうか。

結論を言えば、人はどんな生き方をしても正しい。
積極的に多動をしたい人はしたら良いし、したくない人はしないのも良い。
どちらがよりより人生かと言うのは、あなた自身だけが決められることである。
社会的に何をするでもなく、一呼吸一呼吸することに感謝し、人生をまっとうする人もいれば、文明の発展に尽力する人もいたり、時代を代表するような犯罪を実践する人もいる。
これらの生き方の優劣は、本来無い。
人が何かをするのもしないのも、宇宙はそのまま認めている。
その前提の上で、明日世界が終わるとしたら・・・
リンゴの木を植えるのが好きなら、植えたら善い。
桜の花を見て感動するのも善い。
眠るのもまた善い。
誰かに別れを伝えに行く。
誰かに感謝を伝えに行く。
誰かに思いを伝えに行く。
どれも善い。
美味いものを食べる。
映画、音楽、読書、お笑い、絵画、スポーツ、好きなものを最後に見る。
全部善い。
そして、何もしないのも善い。
あなたの善いは、あなただけが選択できる。
明日世界が終わるとしたら、あなたは今日何をするだろうか。

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