日本において曼荼羅と言えば、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅が有名である。
2つを合わせて両界曼荼羅と呼ばれるが、それらは空海によって日本にもたらされた。
今日はその曼荼羅について話をしたいと思う。
といっても私は未だ密教の経典である「大日経」も「金剛頂経」も原典で読めておらず、お経と曼荼羅を解説したいくつかの書物と実際の曼荼羅を見て感じた私見を述べるにとどめたい。
曼荼羅というのは、実際は密教に限らず、インド、中国、日本などに、古代から現代まで多数存在する。
曼荼羅には通常、十方三世の諸仏が描かれているが、中には鬼や鳥獣で構成された曼荼羅というのもある。
大胆に言えば、たまたま(たまたまではないが)空海の主尊が大日如来であったために、大日如来を中心にした先に紹介した曼荼羅が、日本ではよく知られるようになった。
なので主尊が別であれば、当然中心にはその主尊が描かれた曼荼羅を信奉、軽く言うと好むようになる。
簡単に言えば、曼荼羅というのは主尊からみた宇宙図のことである。曼荼羅を読めば他仏や世界との関係、仏の本願、思想というものが分かるようになっている。
さて、以上は曼荼羅に対する常識的な説明であり、ここからは独説を語りたい。
密教においては本尊と結ばれるために、結縁灌頂(けちえんかんじょう)と呼ばれる儀式が行われる。
目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、華の落ちた所の仏を主尊とするのだが、そもそも主尊というのは、生まれる以前から決まっている。
というよりは、人はみな宇宙の一部であり、密教では宇宙を大日如来と同じであると考える(感じる)ので、人はみな大日去来だと言える。
密教の修行は阿字観など大変厳しいものがあると言われているが、それは何のためにやっているかと言うと、もちろん自身の悟りのためというのもあるだろうが、本願としては、救世のためである。
だが、生身の人間としてでは、人はあまりに非力である。
そのため、大日如来の力を借り、ときには大日如来と同化することにより、人を助けることができる。
実際に護摩行により難病が回復した事例もあると言われている。
さて、そもそも大日如来という存在は本当にあるのか、という問いは、当然にある。
「大日如来とは?」と聞いたとき、たいていの人は何かで見知った偶像としての大日如来、すなわち金色や光輪を纏い、手には印を結んだ仏像が頭に浮かぶのではないだろうか。
像を知らなくても「ダイニチニョライ」という響きは頭に浮かぶ。
そのとき、あなたの頭に確かに意思されたものは何であったか。頭に大日去来が浮かぶ、ということは、意識に大日如来が現れた、ということである。
ただの言葉遊びのようだが、これを鮮明に、遊びを越えて、文字どおり命がけで行うと、大日如来がより現実として現れる。
通常の人は、そこまで何かを信じることはできない。
一朝一夕ではなく、全身全霊での信奉と、ときには深い瞑想と厳しい修行を伴い病が治るといった奇跡と呼ばれることが現実に起こる。
これを邪法と呼ばれるものに応用すると、意識の中で悪魔と同化することにより、現実に禍いの雨を降らすことを試みることになる。もっともこちらが成功したという話は聞いたことはないが。
さて、私のような凡夫は何に帰依したら大日如来のような奇跡に出会えるのだろうか。
それにはやはり、釈迦牟尼が答えを教えてくれている。
何度も書いているが、そもそもお釈迦さまは、偶像に寄らず、犀(さい)の角のようにただ独り歩め、と諭されている。
それはつまり、人間が一人一人自己の宇宙を纏って生きなさいということである。
そう考え、自己と宇宙を同化するまで瞑想すると、すべての人、動物、草花、鉱物、建物、光、闇に至るまで、およそ意識するものすべてに仏性が宿っていることが分かる。
対峙するすべてのものもまたそれ自身の宇宙を纏った仏である。
そう感じると、世界はすべて完璧であり、事象はただただ感謝の対象となる。
瞑想によりそのような感謝の極みに近づけることは稀であるが、確かに仏と出会えたような気分になり、人が生きているということ、言葉があり、何かを他者(仏)に伝えられること、彼、彼女が、そしてあなたが生きているという奇跡に、感謝せずにはいられない。
そうしてもう一度曼荼羅を振り返ると、曼荼羅とは、自己(主尊)から関係の宇宙を描いた、感謝の表現である、と言える。だから、人はみな自分自身の曼荼羅を持っている。
周りに描かれるのは仏でなくても良い。
あなたが感謝したい人、物、事柄、事象がすべて曼荼羅となる。
そのような曼荼羅宇宙儀と呼ばれるものを、誰もが作れるように祈っている。
※ちなみに危ない薬も変な宗教もやってないので安心して下さい(笑)
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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