桜は春の夢を見る

小説は構成を考えているときが一番楽しい。
まずはテーマがあり、その深度が作品の要となる。
次に情景。頭に浮かんだ場面を、パズルのピースのように物語にあてはめていく。
主要となる人物の相関図を作り、個々人の背景を深めていく。独立した個人が出来上がれば、彼らはいきいきと動きだす。
そうして準備が整い、文章を実際に書きはじめると、物語は勝手に進み、登場人物は予期しないセリフをしゃべり、自由気ままに行動し、ときには作者に反旗を翻す。
そうなったらもうお手上げである。
どんなになだめても、ときには叱り、ときには慰め、ときには励ましても、彼らはもう私とは疎遠になってしまうのである。
そもそも、今の世に文学を読む意味があるのだろうか。

というふうに、書けない言い訳ばかりを並べていても仕方がないので、昨日は気分転換に、近所の川縁に花見に出かけることにした。

古来から日本人は桜が好きである。万葉の歌から西行の歌にも数多く登場し、戦国の世では醍醐の花見があり、近年では、桜が綺麗すぎて怖さのあまり木の下には死体があるという妄想を抱く文学青年、梶井基次郎がいたり、桜の美と儚さを表現した、坂口安吾の桜の森の満開の下などの名作がある。

桜はなぜこうも、人々の心情に訴えるのであろうか。
桜並木を缶ビールを片手に歩きながら、私はフラフラと思案を重ねていた。
桜の花びらを眺めて、難しい顔で花びらに何を思うのかと問い、地面に咲く名も知らぬ草花に生きる意味を問うても、返事はなかった。
春の暖かさのためか、酔いが回ったのか、そのうち私は一つの桜の木にもたれ、わずかの仮眠を抱くことにした。
夢の中で、私は一本の桜木であった。
遠くの方から桜並木を千鳥足でしかめっ面を浮かべた男が一人やってきて、ぶつぶつ呟きながら、私の根本に体を預け座りこんだと思うと眠りはじめてしまった。
そのうち呼吸が鼾となって漏れだすと、私は男の心に意識を重ねはじめた。
男は夢を見ている。
男の夢の中で私は一本の桜木で・・・

目をさますと、桜の花びらが一枚、空を舞っていた。
サワサワと葉が揺れている。
風に揺れながら花びらはやがて地面に落ちて、土に染まった。
男は立ち上がり、桜の木に頭を垂れると、やってきた道を歩きはじめた。
酔いはもうない。帰って書こう。男の顔は春の陽気のように、晴れ晴れとしていた。


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純文学作家(自称)