『ルールを破るために、ルールを学びなさい』とはダライ・ラマの言葉である。
ルールとは何か。そしてそれを破るとはどういうことか。
そんなことを考えながら過ごした三連休であった。
そんなこんなで今週の本。
「数と音楽」
数と音楽ほどルール(規則)を体現している世界はないだろう。
純正律やピタゴラス音律ではドレミファソラシの12の音階は周波数で測ると数列となり規則的に並ぶ。
音の調和とは周波数の重なりであり、その規則(ルール)が綺麗であるほど、和音も美しく響く。また、音とは媒体の波によりもたらされるが、その振動もまた、ある規則に基づいて起こっている。
万物は振動し、水晶(クォーツ)はちょうど32.768kHzで振動することは有名であり、それを15回割ることで1秒を得られるため、時計に採用された。世界は音と数のルールでできているというのも納得できる。
「言葉の箱」
作家、辻邦生の小説談義である。小説というのも言葉という一つのルールの体系であると言える。
かつてあった芸術運動ではそのルールを破ろうと表現を捨てようと試みたことがあった。絵画ならば視覚で楽しむことができる。だが、小説で意味のない言葉の羅列は、ただただ読む者を苦痛にさらすだけである。
こうしてダダの流れは終演した。
それに反し、夏目漱石などは既存にない新しい単語を小説に混ぜるなどした。これも一つのルールを破るものであるかもしれない。
「夢を実現するチカラ」
昨年105歳で他界された医者、日野原重明さんの著書である。私が語るまでもなく、日野原さんは既得権を守ろうとする医学会の反対を押しきり既存のルールを数多く変えてきた方である。
日本で救急車内から医療行為ができるように法整備に向けて動きだしたのも日野原さんの力であると言える。
日野原さんが演じた『葉っぱのフレディ』も、たとえ死んでも命は誰かのためになるという素晴らしい話で、日野原さんは医者という垣根(ルール)を越えた存在であった。
「宇宙のエンドゲーム」
宇宙には法則(ルール)がある。
宇宙は何度も繰り返し繰り返し誕生し、終焉を迎えている。
何のためにか。
もしかしたら宇宙の法則は誕生する度に変わってきているのかもしれない。
それが事実なら、宇宙もまたルールを越えようとしているに違いない。
「定年後に1から始めて一流学者になる方法」
なかなか愉快な本である。
著者は大学の教授だが、これも自ら大学というルールを破ることを示唆している。
18歳で大学に入り22で大学院に進まずとも、60から学問をはじめることが可能であり、そこからかなり真剣に、一人前の学者として世に研究を発表できるまでの道すじを示してくれる。好きなことを勉強することは何歳からでも遅くない。
「学問のしくみ辞典」
学問というのは既存の仕組み(ルール)の体系であると言える。
物体は重力により地面に落ちるという法則(ルール)の発見が物理学になり、そして、太陽ではなく、地球が太陽の周りを周っているという既存の考え(ルール)を破ることが、学問である。
「やさしい金融システム論」
金融というのもマネーゲームという一つのルールである。
相対的に安くなったら買い、高くなったら売る。
その理屈に何百何万というルールがある。
お金を増やすにはこのルールを知るのが良い。
「宮本武蔵五輪の書」
日本剣道連盟では剣道を、剣の理法の修錬による人間形成の道、というふうに定めている。
これもまた一つのルール(理念)である。
では、武蔵の実践した斬り合いにルールはあったのだろうか。
武蔵は言う。自分が斬り合いに勝ったのは偶然であったと。
それから武蔵は反省し、偶然の勝利という外道の道ではなく、必勝というルールを、五輪の書により示すことを目指す。
「現代日本語訳法華教」
お教というのも一つのルールである。それは仏教から認識された宇宙の法則を記述するものである。
お釈迦もかつて、私(釈迦自身)を拠り所(ルール)とするな、自灯明、つまり、自ら自分を照らし歩みなさいと諭されている。
「死刑」
日本で法律を破ると、最も重い刑であれば死刑となる。
これは社会的なルールである。
聖人の国では法というルールはないと言うが、一つ一つのルールがルールとして存在する意義もまた面白いものである。
日本では古来から、他人には迷惑をかけないようにする、という暗黙、ときにはお婆ちゃんから教わるルールが存在する。
とは言っても、人は少なからず生きているだけで誰かの迷惑になるものである。
ならば、迷惑を掛け合ったそのお返しに、誰かの助けになることもできる。これも一つのルールである。
冒頭で紹介したダライ・ラマは「人の生きる目的は、幸せになることです」という慈悲に溢れた言葉を人々に与えている。
仏教徒ではない私は、また違った言葉を使おうと思う。
人は幸せにならなくてもいい。
幸せでない人は世にたくさんいる。その人は幸せでないからだめ、ということはまったくなくて、幸せでなくたって、そんなもの求めなくても、あなたらしい生を生ききることが大切である。
まとめ
人は幸せになるために生まれてきます。でも、無理に幸せになる必要はありません。生きていればもっと大事なものに出会うでしょう。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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