花の下にて春死なむ

ここ1ヶ月ほどアウトプットを怠り、空海が著した『十住心論』を読みながら物思いを続けていたのだが、おもには、人は死ぬのだろうかと思案していた。
その思案に連動する形で、退行催眠に興味をもち、寝る前にソルフェジオ周波数、417Hzや528Hz、時には人間には聴くことのできない1Hzの音を浴びたりしていた。
前世の記憶が甦るという退行催眠の結果は別の機会に語ろうと思うが、いずれにせよ、人は今生きている生を懸命に生きるのが良いんだと、当たり前の結論に至ったわけである。

さて、その退行催眠の傍ら、和歌、特に古今和歌集を眺めていた。和歌には人間の思いが詰まっている。


願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃
世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ


上の2首は西行の歌である。
西行は鎌倉時代の武士であり、歌人であり、出家者であり、旅人であった。
先の歌にあるとおり、西行は釈迦入滅の翌日、旧暦の2月16日に亡くなっている。
西行には数多くの逸話が残されていて、多様な文献、ブログなどにも登場するが、その中でも私が一番興味ある話を紹介しておきたい。
それは『撰集抄』に登場する話である。
西行が生きた時代は空海が『秘密曼荼羅十住心論』を書いてから400年近く経過し、衆生空しく、貴族や天皇、武士までも権力闘争に明け暮れていた時代であった。
西行は晩年に頼朝に流鏑馬を教えたりもしている。
さて、西行は出家して高野に庵を構えていた頃、人恋しくなり、戦乱の死骸から骨を集め、反魂を行い、人造人間を作るが、あまりの不出来に幻滅し、殺すにも偲びないので、その人に成れなかった異形の物を高野の奥に捨てるという話がある。
この話は多くの人の想像力を掻き立てたようで、それが鬼となって暴れたり、手術により容姿端麗となり人の子と恋に落ちるなど数多くのスピンオフ物語を発生させている。
例に漏れず私もまた、異形の者が人に会い、人に触れ、人に為っていくという話を書いている。
これは私の生涯のテーマの1つでもある。
いつか西行のように旅をしたいと願いつつ、退行により、私がかつて高野に朽ちた鬼であった話は伏せて今日の筆をおくことにする。

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純文学作家(自称)