世にもふる さらに芭蕉の 時雨かな

12月も10日を過ぎた。
今年もあと20日。
やり残したことはないかと振り返ると、今年もほとんど何も成せていないことを知る。
今日なんかは1日何をしていたのだろうか。
朝からテレビアニメを2本観てから後、ケーブルテレビでまたアニメを4本を観る。
それから遅めの朝食をとりながら録画していたM1の漫才を観て、羽生さんの棋譜を見ていると昼になった。
昨日借りてきた図書館の本をパラパラめくるも集中できず、スマホのゲームをやりながら、貰った仮想通貨の変動グラフを眺め、嘆息を漏らす。
気分転換に服を脱ぎ捨て、右手に握ったものは、柔らかくもゴツゴツとした、お風呂場用のスポンジであり、秋に増えた排水回りのカビと格闘することにした。
小一時間後に風呂から上がり、遅めの昼食に早めの餅を召し上がり、それからまた録画していたオカルト紅白歌合戦を馬鹿馬鹿しくも愉快に観ていた。
夕暮れになり、ようやくやる気のスイッチが入ったところで机に向かい、来年の3月に向けた小説に筆を進める。
小腹が空いたので焼きそばをたべながら、再びスマホを弄りだす。
Twitterでテキトウなことを呟いて、知らない学生さんや、昔のアイドル、棋士やモデルさんにリプを送る。
何だか急に寂しくなって、芭蕉の旅に思いを馳せる。
芭蕉も、芭蕉の尊敬した西行や宗祇もまた、孤独であったのだと感じ入る。
そして、孤独を感じるというのは才能だということに気づく。
生きるという侘しさを知るというのは、貴重な経験である。ある者はそれを歌に、ある者は詩に、ある者はそれを情熱に変えた。
だがら、孤独を恐れることも、悲しむことも、辛くなる必要もない。
侘びしときは、侘びしい俳句も自然と生まれるから面白い。

ということで、枕が長くなったが、昨日借りた本を眺めてみる。

「群棲」黒井千次
「内向の世代」の黒井千次さんの小説。谷崎潤一郎賞受賞作。日本にはまだこんな作家がいると思うと安心する。これぞ純文学。

「書くことについて」スティーブン・キング
大作家、スティーブンキングのエッセイ。人にはみなそれぞれの生き方があるように、いい加減な気持ちでなければ(例えば、自分の表現した言葉を消すということは書き手にとって最も愚かな行為である)、書くという表現はみな正しいものだと感じさせてくれる。

「VRビジネスの衝撃」
昨年はVR元年と言われ、さまざまなVRが世に誕生した。
新宿にはVR専用のテーマパークがオープンし、大手の漫画喫茶ではVRを売りにした個室が導入されている(エロVRが主だが)。
数10年前に流行ったセカンドライフのように、近い将来、人はVRの中で恋をし、結ばれ、結婚し、土地を買い、通貨を持ち、生活をするようになるだろう。

「ニュートリノで探る宇宙と素粒子」
前回も書いたが、科学が把握している世界は物質世界という宇宙の4%である。
他の96%は何かエネルギーがあるらしいというだけで、我々の科学法則が当てはまるかどうかすら分かっていない。
だから、卑下するわけではないが、人間なんてちっぽけなものである。その人間があれを知ってるとか知らないとか、あれが正しいとか間違いだとかいうのは、おこがましいことであるように思う。こんなことを言うのがまたおこがましい。
もっともっともっと人は謙虚になれなければいけない。

「桜の実の熟する時」島崎藤村
ときどき文学の古典を読みたくなる。明治の青春小説だが、今読んでも熱くなる。

「ウイスキーの歴史」
ただの私の個人的嗜好だが、一番美味い酒はウイスキーだと思っている。
酒で早死にするかもしれないが、仕方ないとも思う。

「許認可の手続き」
行政書士の仕事をしたい理由はいくつかあるが、一つは許認可手続きをしたいためである。
仕事とお金がないために辛い生活を送る話を何人と聞いてきた。私に許認可手続きを法的にする力があれば、まっとうな仕事(法的な意味)でお金も自ら作ることを支援できる。最短で生活を立て直せる仕組みを作りたい。
仕事の中で自分の使命があれば、孤独なども感じている暇もなくなる。

「言語が違えば世界も違って見えるわけ」
言葉は世界を言分ける。だから、言葉が世界を規定する、とも言われる。人の乱れは言葉の乱れでもあり、精神の乱れるとき、言葉も乱れる。
逆もしかり。空海も言うように、言葉は想像以上に重要だと感じている。

「俳句のちから」
芭蕉好きと言っておきながら、俳句のことをほとんど分かっていなかった。
日本に俳句という表現手段があることを誇りに思う。
改めて俳句を読み(詠みではない)、とてもじゃないが、私には立派な句を作る力はないことが分かった。変わりではないが年末に川柳をいくつか作り応募する。

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純文学作家(自称)