活人剣について ~本居宣長 玉勝間『師の説になづまざること』を読んでの感想~と、「教え子」という呼び名について

剣の世界においては、活人剣という言葉がよく聞かれる。
この活人剣は現在、大きく二つの考え方がある。
一つは、相手の動きを生かすことにより、相手を殺さず自分の剣を活かす剣の妙技、ひいては人間活動への応用をいう。
もう一つは、ある悪を伐つゆえに、その他の万人を救うことを指す。
この、後者で言われる、いわば腐ったみかんを箱から除くための活人剣について考えてみたい。
私は絶対的な悪魔のような人間はいないと思っているが、それでも社会やある団体にとって相応しくない人間がいた場合、彼、彼女を除くべきだろうか。
かつて活人剣がおおいにふるわれた時代があった。
そう、幕末である。
社会にとって、未来の日本にとって、悪と決めつけられた人間が、大義の名の元に葬られていく。
それは、はたして是であったろうか。


次の話に移る。
「玉勝間」というのは、学問に臨む師と弟子の関係を表している。
師の主張が間違っていた場合、弟子は師を敬うあまり指摘できずにいるのは間違いで、躊躇なくそれを指摘しなければいけない。
そしていつか、師を越えてこそ、弟子たる意味があると言っている。
なぜならそれが、学問のためであるからである。
では、師が社会悪に手をそめていた場合、弟子は師に対しどう指摘するのが良いだろうか。
それとも正義のために、師を活人剣にて葬り去るべきであろうか。
逆に弟子が過ちを犯した場合、師は弟子を切り捨てるべきだろうか。
それとも万感の思いで弟子を抱きしめるべきであろうか。
と、机上の空論を舐めていても仕方ない。
慈悲が最大の仏性だと認識している私でも、差し迫った個別事案が目の前にあれば、私は躊躇うことなく誰かを斬り棄てる。
とは言っても現代では斬ることはできない。司法に渡すのが責である。

さて、これは余談になるが、師が自分のことを「俺はあいつの師匠だからさ」などと言ったら駄目である。
それを言って絵になるのは比古清十郎ぐらいであるが、大抵の場合は馬鹿に見える。
同じように「教え子が云々」というのもみっともない発言である。
弟子が師を師と呼び尊ぶのは自然であり、他人が見て、師にとって彼が教え子だと云々言うのは間違いではない。
道理を知る師ならば、弟子を○○君などどよび、○○君を同じ学徒として扱う。そして弟子が世間に認められだしたら、互いに先生と呼び、学問や目指す組織、理想とする社会に向かって高め合うのが本当の師弟である。

ちなみに私は剣道の師に○○様と手紙をだして怒られたことがある。
愚弄する気か。俺は様じゃないと。恥ずかしい思い出である。

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