眠らない海豹

私の文学作品に「眠らない海豹」というものがある。
海豹が海中深くで瞑想に耽っている。
その瞑想の中で、海豹が世界中で起きていることの夢を見る、という童話である。
これは、私の体験が元になっている。

四歳になるかならないかだったろうか。
ある日、家族で海水浴に出かけた。
どこの海であったろうか。
車ででかけたのか、電車でいったのか、泊まりだったのか、日帰りだったのか、そういうことはいっさい覚えていない。
私の五体は満足にあり、私の顔とは似ていない父と、私にそっくりな母と、二人の兄の五人で、父の会社の社宅に住んでいた。
だけれども、当時の私は日々生きづらさを感じて生きていたように思う。

後で聞いた話だが、その頃、朝起きるとその社宅の家に私がいない。
私は勝手に隣家や近所にあるラーメン屋の家に行き、そこで寝ていることが度々あったのだった。
はっきり覚えているわけではないが、社宅の家で寝ていると「こいつを何で産んだんだ!」とか「殺してこい!」という男の人の怒鳴る声に続いて、鈍い音や、女の人のうめき声が聞こえたりしていた。
そんな声を聞きながら、ときどき息苦しさを覚えた。
私は毎日ただただ、何かに怯えて生きていた。

海水浴に出かけた家族。
四歳の私は海というものを知っていたのだろうか。
感情とは別に、その日の景色は色鮮やかに覚えている。

空は雲一つなく青く広がり、海面は太陽の光を反射し、眩しいほどにきらめいていた。
絶好の海水浴日和だったのだろう。
海岸はたくさんの人々で溢れていた。
アニたちが海岸に向かって走っていくと、両親が追いかけるように続き、ボクもそれに続いた。
すると、砂浜に足をとられて一人のアニが転んだ。
転んだ拍子にもう一人のアニの身体がぶつかり二人で砂浜に揉まれている。
両親が駆け寄り、アニたちを抱きおこそうとする。
二人のアニは砂にまみれながら愉快に笑っている。
ボクはその輪の横を通りすぎ、まっすぐに海に進んだ。
波が足元を濡らしはじめた。
生ぬるい感覚が私を包む。
海面が膝の下を越えて、下半身が見えなくなる。
歩く速度はゆっくりになるが、それでもボクは歩みを止めはしなかった。
海水が胸の高さを越えて首に浸かる。
口に入る水が酷くしょっぱい。
遠くでカモメが飛んでいる。
一羽、二羽、三羽・・・
すべてのカモメを数え終わる前にボクは目を閉じた。
海面はすでに頭の上にあった。
息が苦しい。でも、構わない。足はとっくに地面を離れていた。
苦しみも、もう終わるだろう。
暗い、暗い海の底にボクは沈んでいった・・・

気がつくと暗闇の中でボクは一人で砂浜にいた。
どれぐらい時間がたったかもわからない。
なぜ、そこに自分がいるかも分からなかった。
しばらくたつと、眩しい光が目に当たった。
制服を着た知らない男の人が懐中電灯を照らしながら驚いたようにボクを見て、ここにいるぞー!と叫んでいた・・・

これも後で聞いた話だが、私がいなくなったと分かり捜索隊がだされ、半日ほど探していたらしい。
近隣の海に浮かぶものがないか、砂浜に埋もれているものがないか。
日が暮れても、とうとう私は発見されなかった。
夜になり、捜索隊が引き上げていった後で、一人の警察官が闇に動く何かを発見した。
それが私だった。

今ではあまり考えなくなったが、それでもときどき思うときがある。
やはり私はあのとき海に沈んだのではないか。
そうして今、海の底でさめない夢を見続けているのではないか。
そうでなければ、やはり私は何かの力により生きていているのだろう。
いや、私はたぶん生かされている。
私は誰かを、四歳で捨てた私の命をもって、助けなければいけない。
いつか私の小説を読み、死を踏みとどまる人がいたら、私もまた救われる、そんな気がしている。


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純文学作家(自称)