文学の話ばかりで申し訳ない、と謝りつつ、今日も文学の話をする。
「文芸的な、余りに文芸的な」とは芥川龍之介の文学評論である。
この評論で、谷崎潤一郎と芥川の、文学という芸術に対する見解の違いが浮き彫りになる。
芥川は文学に対する詩的精神を重んじた。
それに対し谷崎は文学の筋、すなわち構成や題材が重要とした。
これは書き手にとっての創作に対する考えの違いである。
私もどちらかと言うと、芥川の立場をとる。
小説において物語は必ず必要というわけではない。
極端なことを言えば、私は「 」(空白)で何かを伝え感動させたい。
何も書かれていないが、全てが書かれている。
そんな作品を生み出したい。
先日から「向日葵の言葉」の執筆を中断し、別の小説を書いている。
「向日葵の言葉」は主人公が心の病を抱えているという設定にしているが、ナイーブな問題であり、私の認識不足があった。
もっと勉強してから続きを書く。
ということで、今は夜の蝶とネットビジネスに絡む小説を書いている。
これで10月が締切の群像新人文学賞か、間に合わなければ年末の大宰治賞に応募する。
どちらも純文学の賞である。
応募条件は原稿用紙100枚~200枚ほどの短編~中編である。
枚数が少ないため書きたいことは全部書けない。
何をメインに書くか。それが重要になってくる。
話は変わるが、私が本当に芥川賞作家になると信じている人は少ない。
私にも師匠がいる。70過ぎの漫画家のお姉さんだが、その方と、私自身と、会社に1人いるぐらいである。
さて、ジャンプ小説新人賞などの大衆小説と違い、純文学の賞と言うのは独特の閉鎖的な基準がある。
深さと比例するように、おのずと作品も暗くなる。
暗い作品を書いている間は、気分もなるべく暗い方が良い。
パーリーピーポー的な気分では、のりのよい小説になってしまう。
そこで改めて、何を書くかが問題になってくる。
私小説と言えど、主人公は私ではいけない。
どちらかと言えば、私もパーリーピーポーに近い。なので主人公は架空の人物にする。
また、深さのスパイスとして物語を重層化にするため、もう一つ視点を持ち込む。
悩みどころだが「客」として私の影を配置する。
そして、重要なのがヒロインである。
物語のイメージと方向性に関わってくる。
作品のはじまり、下手くそな「青空」が響く店内(歌っているのは私)に、主人公の男が来店する。
まずどこに座り、どんな人とどんな会話をするか。
これが物語の伏線になる。
主人公がおじさんでは物語が茶番になってしまい、20代中盤では、ただの恋愛小説になってしまう。
30手前のメーカー勤務か、システムエンジニアにしよう。一番書きやすい。
実は、ラストのシーンはもう決まっている。
これもお店の店内の風景で、武田鉄矢さん風の男が、やはりカラオケを歌っている。曲は「人として」。
映画化されたときは、そのカラオケの歌に続いてエンドロールがはじまる。
本物の武田鉄矢さんが歌ってくれたら最高である。
まあこれは妄想だが、やはり歌と会話が、物語の重要な鍵となる。
ただし、メロドラマでなく、純文学である。
山場は何にしようか。
今はまだ風景しか書いていないが、もう少しで構成が決まる。
1日3枚書けば、9月の中旬には完成するだろう。
できたらぜひ読んで欲しい。私の文学を。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
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