オースティンやチョムスキー、そしてピンカーといった言語学者の言語起源論を扱った書物をいくつか読むと、人間はもともと言葉を能く扱える動物ではないような気がしてくる。
確かに生成文法のような、人間が言葉を習得可能となる論理回路は生得的に備わったものだが、その文法が逆に、何かを伝達するという言語の一つの目的を困難にさせている。
蜜蜂やクジラがもっと楽に仲間に情報を伝えているのを思うと、人間にとって言葉は不要とさえ私は感じている。
そして人間は伝わらないからこそ、バベルの塔さながらに、有史以前、そしてこれからも巨万の書物、そして言葉を残していくのである。
人の話す言葉はもともと、a--とかu---とか、単純な叫びやつぶやきであった。
それで十分理解しあっていたのだが、きっと、寂しがりやで悪知恵の働く1人の人間が、『ワタシ』や『アナタ』という言葉で人間を分け、さらに『エモノガイタゾ』とか『オナカハナンデスクンダロウ』とか『ワタシハアナタヲアイシテイマス』などと言葉を発明したのであろう。
もし誰かが、言葉を扱うことに苦労していたとしたら、その困惑は当然である。
だからこそ、言葉で苦労する必要もまた、ないのである。
何かを伝えるのに言葉は不要で、当然音楽も、お酒もまた必須ではない。
戦争や極端な格差を無くすにはどうしたらいいかという問いにかつて誰かが『地球を丸ごと愛せばいい』と言っていたが、そんなことは聖人君子か、恋の最中にいる人間にしかできないであろう。
ならばいったいどうしたらいいのだろうか。
人間がもともと発している、言葉でない言葉を聞けるようになれれば良いと私は思っている。
言葉がなくてもあなたがいれば、あなたがいることを確かに感じ、向日葵の花が咲けば、咲いたことを感じる。
川やビル、椅子に枕、存在するものすべては、その存在を発しているのだから、彼らの声にもっと耳を傾けようと私は思う。
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純文学作家(自称)
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