すべての人、モノ、事象には仏性があると頭では分かっていても、すべてを受け入れられるわけではないのも、また事実である。
特に最近は、世界にとって何一つ面白みのない人間だと私が独断で感じた場合の、諦めの決断が、早くなってきている。
世界は予定調和のごとく動いているが、そこに一石を投じるような変化をもたらす者がいる。
そういう人は実存している。
それに反し、ほとんどの人間は現存在に留まり続ける。
人は変わることもあるが、多くの場合は三つ子の魂100までと言われるように、変わらないものであるように感じている。
たんに私の気が短くなっただけかもしれないが、ただ生きている人に何を期待したらいいだろうか。
話は変わるが私は実存者が好きである。肉体が存在する『今』ではなく、精神が『今』や『ここ』ではない別の次元にあるとき、その肉体とのぶれが、輝きとなって見える場合がある。
ドイツの哲学者カールヤスパースがかつて、京都にある広隆寺の弥勒菩薩像の写真を見て言葉を残している。
『此の廣隆寺の佛像には、本当に完成され切つた人間『実存』の最高の理念が、あますところなく表現され盡しています。それは、この地上におけるすべての時間的なるものの束縛を超えて達し得た、人間の存在の最も淸淨な、最も圓滿な、最も永遠な姿の表徴であると思います』
あるがままでいいよ、とか、自分らしく生きればいいというのはときに説得力を持つが、過度期でない限りは無用である。
先の確固とした幸福が見えぬまま『今』のままで良いというのは、座して死を待つのと同義である。それは潔ぎよさではなく、怠慢である。
やれるだけやったのなら潔く死ねば良いが、まだまだやれる余地はある。
自戒をこめて私はここに記す。
現存在から実存へ。
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純文学作家(自称)
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