カノン

目を閉じてもなかなか眠れず、インターネットの投稿サイトで動画を視ている。
外では雨が降り、窓ガラスを流れる水滴が幾何学的な模様を作っている。
深夜3時。そろそろ眠らなければ明日の仕事に影響するだろう。
動画ではピアノの鍵盤とその上で動く指先が可憐に舞い、美しい旋律を奏でている。
『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』。
通常、パッヘルベルのカノンの名で呼ばれている曲である。

目を閉じると、さまざまな雑念が浮かんでは消えていく。
眠れないのは明けない梅雨を鬱陶しく思っているからでも、何かを思いつめているからでもなく、しいていえば、眠るのがもったいないと考えているからだろう。

こんな夜は雨と一緒に幸運が降ってくるに違いないと思いながら、スマートフォンでコミュニケーションアプリを開いてみるが、誰からの連絡も届いてはいない。
それでも、何かが訪れるのではないかと期待するうちに、すっかり頭は冴えてしまった。
眠りたくないのには、もう一つ理由があった。
心にずっとしこりのように滞留していること。
1ヶ月ほど前、ある方から恋愛小説を書いて欲しいと頼まれていたが、ずっと書けずにいる。

この1ヶ月の間、何度か書きはじめてみたものの、いずれも400字詰めの原稿用紙で20枚ほど書いたところで挫折していた。
私の暗い過去の恋愛話をいくら着色しても面白い話にはならず、思いきって官能小説にチャレンジしてみたが、男の欲望を表現した、ただの猥雑な話となってしまった。
ならば普通の青春小説を書こうとしたが、これが最も難しく、物語は山場をむかえる前に消滅した。

小説を書く上で最も重要なことは、ストーリーを構成する能力でも、その人自身と言われるような文体の確立や言葉の巧みさなどではなく、物語を完結させる力である。

この半年あまり、一つの物語を完結させるのに必要な情熱を継続させられない状態が続いている。
いつでも物語の火種は突然やってくる。
そうしてはじめはロウソクについた小さな炎のように燃えはじめる。
炎が消えないように手で風を防ぎながら、大事に炎を大きくしていく。
物語が進むにつれ、炎はロウソクは溶かし短くなっていく。
情熱の炎は、1晩、2晩と続くが、1ヶ月ほど経った朝に目を覚ますと、ロウソクを半分以上残した状態で、炎は消えてしまっている。
慌てて火をつけようとするが、導火線がすでにないのか、火はもうつかなくなっている。
ロウソクを変えてみても、結果は同じである。
炎は中途半端に燃えて、ロウソクを溶かしてしまう前に消えてしまう。
ロウソクが悪いのではなく、きっと私がつける炎が悪いのだろう。
せめて半年、いや、3ヶ月あれば物語が完結する。
それまで消えることなく炎を灯し続けなければならない。
今度こそ。
カノンのメロディを聴きながら、今、頭の中には一つの物語が浮かびはじめている。
少しでも余計なことを考えたら散ってしまいそうな儚い想像。
眠ってしまったら、きっと朝には忘れてしまっているだろう。
後になって物語の欠片を集めてみても、今、胸にある感覚は二度と掴むことはできない。
布団から抜け出し、ペンと紙をとりにいくこともできない。
やっと訪れた物語の小さなかけら。
集中を切らさず頭の中でそれを組み立て、心に火が燃え移るのを待っている。

純愛。そう。恐らくそれは、純愛の物語になるだろう。
主人公は高校生の男の子。
誰にも言えない秘密を抱えている。
はじまりのシーンは音楽室。
放課後、男の子は一人ピアノでカノンを弾いている。
そこへ同級生の女の娘がやってくる。
男はその娘が好きで、女もきっと、その男を好いている。
けれども男は、相手の気持ちを知ってはいても、その娘と距離をおく。
その、誰にも言えない秘密のために。
誰かに話をしたところで、誰にも理解されない話。
神様と、その男だけが知っている。
その男にとって、愛を伝えないことが、その娘を最も愛することとなる。そんな物語。

カノンの旋律のためか、いつのまにか頬に生暖かい水が伝っていた。
時計を見ると、時刻は5時を指している。
そろそろ本当に眠らなければ。
そうして私はようやく眠りについた。

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純文学作家(自称)