誰(た)がために

『無碍の一道』という言葉があるように、祝福の光に包まれ、すべてに感謝し、歓喜の中に存在するのが、人間である。

それでも人は、ときに絶望の淵に落ちる。

連休中に、小学2年生で自らの命を絶った女の子の作文を読んでいた。

「ママ パパへ
わたしは いきていてもいみのない人げんです。わたしがいきていても みんながこまるだけです。
ママパパ長いあいだおせわになりました。なにもいわず わたしをしなせてください。わたしはじごくで みんなのことをみまもっています」

女の子の気持ちに同調しかけるのを何とか踏みとどまり、地獄の底で成仏を祈り、人に起こる不幸について考えを巡らしていた。

釈迦の出家を説明するのに四門出遊の話がある。
王子だった釈迦がある日、カピラヴァストゥの東門から出ると老人に会い、南門より出ると病人に会い、西門を出ると死者に会い、生老病死という人間の苦しみに絶望を抱くことになる。
そして北門で修行者と出会うことで、釈迦は出家を決意するという話であるが、出家のできない我々は、どうしたら生きている苦しみを除くことができるだろうか。

生老病死だけでなく、愛別離苦(あいべつりく)という、愛する者と別離するという苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)という、怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求不得苦(ぐふとくく)という、 求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)という、肉体と精神が思うがままにならない苦しみ、そのような四苦八苦を受けて、人は生きている。

人を愛せば別れがあり、人を信じれば裏切られ、人と約束すれば反古にされる。
愛する者との愛の語らいは一時で、愛する子どもが生まれても、やがては離れていく。
そうな日々をすごしていくうちに月日は過ち、やがて老い、そして死ぬ。
そのように苦しみ生きるのが、俗仏としての人間のさだめなのだろうか。

私の個人的な話であるが、半年ほど前、青森の大間で暮らす人間に、一万円を振り込んだ。
インターネット上の出会いで、実際に会うことのない人間である。
病床で動けず、薬を買うお金がないという。
お金を振り込んでから数か月後、再びその娘から連絡があり、未婚のまま妊娠し、相手の男ともすでに別れたという。

また、数ヶ月前、ソーシャルゲームで同じサークルに属する男から、生活が苦しいとお金の無心があり、翌日に一万円を振り込んだ。
さらに翌日、サークルのチャットでギャンブルで負けた恨みを書き連ねる男の投稿を目にした。

これも数ヶ月前であるが、自殺未遂の後遺症から身体に障害を抱え、障害者年金の支給までお金と食べるものもなく、生きていくのが辛いという女の子がいた。
すぐに一万円を口座に振り込んだ。
翌日からその娘が投稿する写真は、喫茶店の嗜好品のメニューになった。

誰かのために何かをした気になる私の卑しい心は、この五年のうちに50人ばかりの人間にたかだか一万円を渡したぐらいで、誰かが救われることを期待してしまう。
私の貧しい心は、誰かのためと嘘ぶいて、誰かの変化を求めてしまう。

一時に祝福の雨にうたれ歓喜の涙を流すことはあっても、その心をいつ何時も継続して持ち続けること、つまりは『無碍の一道』を歩むことは難しい。

私がときに祝福を忘れ感謝を忘れてしまうのは『深信』がないからである。
『深信』とは、深く信じるということではない。
信じるとは、まだ疑いが残っている状態であり『深信』とは、それを疑いなく当然に感じ、思うことをいう。

人はみな当然に救われている。
人はみな当然に感謝に包まれている。
それを私は、ときどき忘れる。

『布施』というのは本来、与えることではない。
誰かのために為すことでもない。
また、善行を積むための修行でもない。
何も求めず、何かを期待することでもない。
私は私の『深信』を得なければいけない。
ただ当然に、それが『無碍の一道』という感謝の一つとして為すことを私は果たす。

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純文学作家(自称)