2019年7月3日。
照明の消えた病院の休憩室から、外の景色を眺めている。
19時から始まった手術は予定の時刻を2時間あまり過ぎ、5時間が経過した今も続いている。

昼間、もう何年も会っていない義理の父から電話があり、何年か前から離れて暮らしている、書類上はまだ妻である1人の人間の容態を聞くこととなった。

歴史的な豪雨が続く九州にいて、自身の身よりも1人娘の安否を気遣う義父は、飛ばない飛行機を恨めしく思う前に、同じく恨めしく思っているだろうこの私に、今夜の立ち会いを託してきた。

窓から見下ろす街が、濃い闇に包まれている。
7月3日。まるでこの日が私の業であるかのように、街全体に、重くのしかかっている。

今から24年前の1995年7月3日。
その日、一つの命が失われた。

高校の期末試験が終わり、自転車で急いで帰宅すると、飼い猫のタマはすでに座布団の上で冷たくなっていた。
身体は硬直し、口からわずかな吐瀉物を吐き、漏れた尿がタマの毛を湿らせていた。
私はタマを抱えお風呂場にいき、涙を流しながらタマの身体をお湯で洗い流した。

数時間後、タマの体は葬儀屋に引き取られていった。

数日前から、タマの様子はおかしかった。
何を食べても、すぐに吐いてしまう。
私の眠る布団の中に無理につれてくると、普段ならすぐに飛び出し、タマ自身が居心地良く感じる布団の上やひんやりした廊下の上でくつろぐのが、ここ数日の間はずっと大人しく私の布団の中で眠っていた。
試験が終わったら病院に連れていこうと思っていたが、そんな私の浅はかな考えにより、タマは体を隠す力もなく、息絶えることとなった。(たいてい猫は死ぬ姿を飼い主に見せないと言われる)

生まれたばかりのタマは、私が小学5年生のクリスマスの日、タマの兄弟たちと一緒に、校庭の隅に捨てられていた。
その中から特に小さく、まだちゃんと生えそろっていない三毛の猫を、私は自宅に連れ帰った。
当時、どのように親を説得したか忘れてしまったが、そうしてタマは、我が家の一員となった。
タマの兄弟たちも同級生や別の学年の児童により飼われることとなった。
タマが別の児童に拾われ、別の生き方をしていたなら。
タマは私に拾われて幸せだったのだろうか。
一つの命を放置して何が試験だろうか。


外では雨が降っている。
ときどき巡回の看護婦がやってきて、暗闇の中にいる私に気づき去っていく。
病室の面会時間はとっくに過ぎているが、患者でない私が病棟に居続けていいのか分からないまま、何の説明もなく暗闇の中で待合室の椅子にただ1人座り、手術が終わるのを待っている。
もしかしたら手術はとっくに終わり、私はただ忘れられ、亡霊のようにここに佇んでいるのかもしれない。
窓に映る影が黒く揺らいでいる。
7階から街を見下ろすと、病棟を見上げる一つの存在に気づく。
私を見ているのだろうか。
それとも、どこかの病室にいる患者を気づかっているのだろうか。
私もまたその存在のように、かつて一つの病棟を見上げていたことを思い出していた。

1998年7月3日。
やはりその日、一つの命が失われた。
私は20歳で、彼女も20歳だった。
当時の私は、でたらめな生活をおくっていた。
その年のはじめに自身に起きた出来事から、私は自分が生きているということに疑いを抱くようになっていた。
それで、自分を壊すことに夢中になっていた。
といっても、自死するような勇気はなく、カミソリの刃を腕にあてることすらできなかった。
せいぜい酒を大量に飲み、現実を拒絶し、誰かれかまわず喧嘩をふっかけ、他人によって自分の肉体を傷つけて貰うことしか出来なかった。
たまに訪れた大学の講義中にもウィスキーの小瓶を口につけ、授業に飽きると図書館に行き、人が土足で歩く青い絨毯の上に横たわり、猫のように眠るのだった。
ほとんどの人間が私を避けていたが、そんな私に興味を抱き、近づいてきた女が1人だけいた。

いったんここまで。

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純文学作家(自称)