今日の日記(6/4)

『人はいつ死ぬかわからない。だから、生きている今を楽しもう』

今日はそのような言説について考えを巡らしたい。
はたして人間は、『今』をずっと楽しむことができるのであろうか。

今の人類の叡智では死期を事前に知ることはできない。
いろいろ反論もあるが、長くなるのでやめておき、そのことを前提に考察する。


中学生ぐらいになれば、誰もが一度は考えるだろう。
明日もし地球が滅びるとしたら、今あなたは何をしますか?

中学校の卒業文集をめくると、僕は『みんなより先にあの世に行って、あの世の征服を企む』と書いている。

別の子は『地球が滅亡する前にわたこに宇宙に連れて行ってもらう』と書いている。
『わたこ』というのは、当時の私のあだ名である。
地球が無くなってしまったときに、僕と宇宙に行っても仕方ないのではと思っていたが、もしかして、いや、そんなことはないと、今更ながら考えを巡らしている。

人は後悔を、事が起きる前にできないように、過去の出来事を、未来から直接変えることはできない。

人にできるのは、未来において同じ後悔を二度としないようにすることと、今という瞬間から、過去に起きた出来事の意味を塗り替えることである。

もう一度、最初の言葉を眺めてみる。
『人はいつ死ぬかわからない。だから、生きている今を楽しもう』

『今』はまだ明瞭になっていない。
『今を生きる』といった場合の『今』とは、何を指すのだろうか。
19世紀の著述家、ニーチェの考えを借りて、考察を進める。

ニーチェの代表的な思想と言えば、『永劫回帰』である。
分かりやすく言えば、おかわりもう一杯である。
宇宙というものが、誕生から滅亡までを何度も何度も同じように繰り返していると仮定して、あなたは今と同じ人生を、再び同じように歩むだろうか。
そうならば良し。そうでないならば、再び歩みたい人生を歩もう、という考えである。
そうしたら、人生が一度きりであったとしても楽しいものになるだろう、というのが、ニーチェの言う永劫回帰である。

積み重なったたくさんの『今』の結果、今としての『今』がある。そう考えると、『今』というのはこの瞬間の『今』だけではなく、ある程度の幅、つまりは、死ぬまでに残された時間を含んだ『今』というものが、立ち現れてくる。

『生きている今を楽しむ』ということは、点としての瞬間的な今だけではなく、人生をすべてを楽しむ、ということにほかならないない。
事態は何一つ好転していないが、何かが分かりかけてきている。
 
人間はみな、誰もがいつか人生を卒業する。
すべての人間の『今』という人生が楽しいものになるよう、私は祈っている。





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