令和に

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

三島由紀夫の辞世の句である。
昨夜、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決する前におこなった、最後の演説を聞いていた。
三島は国体が失われる日本の未来を憂いていたが、三島の予言のまま日本は歩み、その歩みの先に令和という時代がやってくる。
三島は昭和という時代の先に、何を見ていたのだろうか。

三島論を展開する資格も技量も私にはないので、この先は専門家に譲るが、思想の賛否はあれ、現代に三島ほど国のことを思った作家はいなかったのではないかと感じ、今朝は静かに合掌している。

作家というのは未来を見据える予言者である場合もある。
天才三島が見たこの先の日本の未来がどういうものか、私には推測することしかできないが、これから訪れる令和という時代を、私なりに見つめて過ごしたい。

ここからは蛇足である。
令和について、いくつか感じることを記しておく。
テレビや多数の記事でも言及されているが、令というのは冠、つまりは象徴にひざまづく人の姿を表している。
ひざまづく、というのはその対象に敬意を表すことである。

侍が命を賭け何があっても姫を守るという忠誠の証しとしてひざまづく。

男が愛する女性の手をとり、一生愛することを誓いひざまづく。

敬意持ってひざまづくとは、そういうものである。
それでは、令をもって和となすとはどういうことをいうのだろうか。
敬意が持てることをする、簡単に言えば好きなことする、ということである。

本当はしたくないけど、仕方なしにひざまづく。
嫌だけど目的のために、ひざまづく。

これらの行動は、卑しいとまでは言わないが、控えめにいってあさましい行為である。

何かのために、何かをする。
それがときに重要なこともあるが、本来大事にすべきなのは、純粋にそれをしたいかしたくないか、そして、したくないならばしない、したいならばする、ということだけである。

令和だからそういう時代になる、というわけではなく、もともと大事なことが時代精神により、より顕著になってくるという表れである。

それでは和を乱すのが好きな人が人の和をかき乱し、戦争屋や銀行屋が金になるからといって戦争を画策するのは、彼らの好きなことだから良いのか、という話がある。
良いのである。
戦争をしなければ良いのだから。

現実的な話をすると、それでもやはり、戦争は起きるだろう。
私の嫌いな苫米地氏が言うように、ミサイルを飛ばしたり、軍艦を海に浮かべることだけが戦争ではない。
ある者はそのことを理解して、ある者はそのことを理解せずに戦争に参加する。
先の対戦でもそうだが、人は理屈じゃない感情に感化されて行動する。
そういうときこそ、真心でしたいかしたくないかという基本が大事になる。

私の祖父は戦争にいかず、戦争中も田舎の田畑を耕し、川で釣った鮎を焼いて食べ、採れたてのとうもろこしを川縁の石で焼いて食べるという生活をずっと送っていた。
そのおかけで被った苦労もあるだろう。
人々に批難され、物理的な損害もあったかもしれない。
私はそんな祖父を偉大だと思っている。

好きなこと、やりたいことは曲げなくていい。
あなたはあなたの好きなように生きていい。

三島はきっと、自らの死に場所を自衛隊駐屯地と決めたのだろう。

脈絡なく書いてしまったが、生きたいように生きるすべての人に合掌し、今日の日記を終わりとする。

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純文学作家(自称)