清明

昨夜1:51に太陽黄経が15度を指し、清明に入った。
暦の上では、全ての物が活き活きとして、清らかで美しい季節となる。

大陸では清明節と称し、ご先祖様に感謝したりお墓の掃除が行われる。
なぜ清明という時節にご先祖様への祈りを捧げるのかを調べてみたが、由来は分からなかった。
古代の儀礼に詳しい人と言えばまず第一は孔子と思い、論語から時節に言及する言葉を探してみても『暮春の候』という節が一つあるだけで、立派になることや社会的成功をすることよりも、ごく平凡な日常生活を送れることが人間にとって大切だという孔子の教えに感じるものはあっても、今私が探している清明の由来にはたどり着けなかった。

それから陰陽五行や西洋の文献をいくつか紐解いたが、得たものと言えばトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』という書にでてくる、『誰がそういったかをたずねないで、いわれていることは何か、に心を用いなさい』という言葉に感心したぐらいで、やはりこの時節に為すことの指針は見つからなかった。

春分では、あれほど多くの書物が、始まりとしての産声をあげることを鼓舞していたにもかかわらず、太陽が天球を15°まわった今、すべてが清らかであるというキーワードのみを示し、具体的な動作としてはお墓を掃除することだけで、それ以外のことを示唆する記述は見つけられなかった。

天文博士であった安倍晴明ですら言及していないことを私が言うのはおこがましい。
そう思い、今日1日をぼんやりすごしつつ、昨日に引き続き過去に思いを馳せていた。
そうしているうちに感情が高ぶり、幾人かに連絡をとろうと思ったところ、気づいたのである。
すでにブロックされていた。
それで分かったのである。

時節というのは、追いかけるものではなかった。
私がさんざん自分で言っていたことである。
人は生きるように生き、なるようになると。
それに気づいて幾人かの知人やネット上のつながりを再び追ってみたところ、理解したのである。
春分という時節を知らなくても、4/4までに何かをはじめる人ははじめている。
そういう人は何も言わなくても時流に乗るのである。
4/5~4/19という清明の季節は、清々しくなる時流なのである。
そして時流に乗れなかったり、より清々しく清らかになるために、お墓を掃除したりするのである。
断捨離できるものはしてしまうのがいい。清々しくない関係は、この時期に絶ってしまうのがいい。
そして捨てるものも清々しくなるものがない人は、先祖に感謝することで清々しくなれる。
ご先祖様がいない人などこの世にいないのだから。

さて、清明の次は穀雨である。清々しくなった生命に、恵みの雨が降る。
その時をまた、楽しみにしている。

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純文学作家(自称)