先月24日、日本文化や文学の研究者であったドナルド・キーン(鬼怒鳴門)さんが他界された。96歳であった。
先生の偉大な業績を列挙したらここに記述できる文字数の制限を越えてしまうため割愛するが、一つ挙げるとすれば、先生が25年という歳月をかけて執筆し、世界中に向けて発信した『日本文学の歴史』(History of Japanese literature)という書物がある。
私はドナルド・キーン先生に、直接に教授されたことはない。
だが、その著書により先生の持つ日本語への興味、日本人への優しい眼差し(訪れた世界のどの民族にも優しい人であったが)、日本への愛、そして研究に対する真摯な姿勢、そして何より、日本文学の味わいや楽しみというものを教わった。
10代の後半、私は私という不確かな存在に揺れ動いていた頃、偶然にその書を読んだ。
日本で日本人の両親から日本人として生まれ日本で育ち、日本語を話し日本的思考の中で育った私より、その書は日本の文学について記述することに喜び、日本の文学が世界にあることを誇っていた。
その高揚は後に続く私的な体験とともに、今でも心に刻まれている。
読後の興奮を抱いたまま、私は大学の出版文化の講義に出席し、その授業の中で「これから誕生したら面白いと思われる雑誌について述べよ」といった課題が出された。
俗にいう日本人の自虐的歴史感の強い時代である。
私は自身の実存的課題に加え、この非力と思われる日本に興味を抱くアメリカ人文学者(キーン先生はまだ帰化されていなかった)の眼差しをヒントに、世界から見られ活躍を期待される日本という視点の重大さを認識し、まだ地上にない、そのような雑誌を空想して論じた。
だがその空想は、授業の中で新聞社だが出版社だかを引退して教授となった者によりつまらないものの代表として扱われ、ある女学生の発表した主婦でも楽しめるファッション雑誌というアイデアが最上級の賛辞で紹介された。
私は5段階で評価2という単位を貰い、その女学生は当然のごとく5であった。
それから数年後、講談社からCOURRiER Japonが刊行され、まさに世界の中の日本という視点で構成された雑誌であり私は溜飲を下げたのだが、その時すでに件の教授は死亡していた。
もちろん、年代に応じたさまざまな女性ファッション誌が誕生し流行したのは歴史の通りである。
それからもキーン先生の書物をいくつか読んだ。
松尾芭蕉が43歳のときに走らせた文【ついに無能無才にして此の一筋につながる】からタイトルを引いた『このひとすじにつながりて』では、戦前、戦中、そして戦後とキーン先生がニューヨークやロンドン、そして日本を往来して時を過ごした、主に美しい思い出のつまった名書である。
吉田兼好から安部公房、そして三島由紀夫などの作品を英訳して海外に日本文学を広め、東日本大震災後、キーン先生は日本の助けになりたいと帰化されている。
その後も活動は多岐に渡り、生涯に50を越える書物を世に残している。
キーン先生の訃報を知り、私は再びいくつかの著書を開いてみた。
キーン先生が日本の文学に目覚めたこと、その奇跡に胸が熱くなる。
そしてその勉強量、情熱に感嘆せずにはいられない。
もっともっと勉強し、もっともっともっと書かなければと恥じる思いである。
キーン先生のご冥福をお祈り致します。
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純文学作家(自称)
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