人間は本来すべてにおいて自由であるが、現在の私は未熟であるために、自分に課している制約がある。自身の戒めのために記しておく。
一つ、超越論的認識に頼らないこと
生きているとごく稀に、既存の言葉では表現できない感覚が訪れることがある。
だが、生きている人間はその絶対的な視座からも自由であるべきである。ならば、それを拠り所にすべきではない。
一つ、中道を歩く
人と違う生活をして何かを悟ったり、特殊な経験を原体験とするのは簡単だが、そこに普通性は宿らない。日常の平凡な歩みの積み重ねの中に、人としての道理を見ること。
一つ、真心から行うことで対価を得ない
当たり前だが一応書いておく。読んで字のこどく、真心とは真の心であり、真心とはその人自身といって良い。
真心に対し、交換可能な対価はつけられない。また誰の真心も、交換不可能な絶対的な価値がある。真心を対価で返すのは交換可能であると、相手を侮辱したことになる。真心には真心で返すこと。
一つ、広告には謙虚さを持つこと
これは難しい問題である。言葉や記号には自己表現が含まれる。それが広告となってしまうこともある。
広告というのは不足があるために行われる。未熟であることの表明である。広告するなら、何よりも謙虚さが必要である。
本当に価値あるものは広告なしに必要な人に渡る。
一つ、感謝や祈りは心に留めておかず表現すること
俗物的な実験をしたところ、心の中で祈ることより、言葉で表現した祈りのほうが叶いやすいと分かった。
また、陰口などを言われた場合、直接言われるよりも、又聞きで聞く方がダメージが大きい。それと同じように、誰かが感謝していたと人づてで聞くと、感謝はより大きくなる。そうやって表現しておくと、あとで得したり、徳があがることもある。
宗教家の祈りが派手に見えるのも、祈りがより世界に響くようにするためである。
祭多まつりのWEB SITE
純文学作家(自称)
0コメント