如何にして我々は先天的認識が可能であるのか その可能性と根拠について

いわゆる超越論的哲学というものに捕らわれていると、人は前に進めないなどと言われたりするが、「前」とはいったい何を指すのだろうか。

空間的な「前」であれば顔を前面に出せば「前」に進み、時間的な「前」であれば生きていればみな等しく「前」に進む。

であればここで指示される「前」は物理法則とは異なる「今」ではない「前」を認識する超越論的な人間に意識される何かである。

そういった「前」があることを前提にした場合、人は「前」に進む必要があるのだろうか。
いましがた「必要」という言葉を使ったが、人にとって「必要」とは何を意味するのだろうか。

人は肉体的には細胞を働かせる「栄養」があれば楽しく愉快に生きていける。
それ以上に人に「必要」なものとは何だろうか。

そんなことを考えながら電車に揺られていると、降車予定の駅はとっくに通過していた。
就業時間もとうに過ぎている。
だが、私の生活とアプリオリな疑問はどちらが大事かといえば、どちらもたいして重要ではない。
こうして私が雑文を書いている間にも、世界では数万の命が失われていく。
ある日誰かが私のこの文を読んで世界平和を実現する、なんてことは起こり難いだろう。
であれば私が今すべきことは何だろうか。
電車内の広告が目に映る。
『あなたの200円が少女を1人救います』

電車に乗る前、私はコンビニでお茶と鮭のおにぎりを買い、お釣りを募金箱に入れてきた。
私の行為で1人の少女が救われる。
だが、私の財布にはあと105円しか入っていないので、2人目の少女は救うことができなかった。この現実は本当だろうか。

自身に湧いた欺瞞を振り払うため、私は鞄から携帯電話を取り出す。
ラインアプリで会社にメッセージを送る。
メールに届いていた資料の修正指示と、打ち合わせに必要な準備を促し、何かをした気分に浸っている。
耳にイヤホンをあて、アプリが紹介するお勧めの曲を流す。
『心配なんて ずっと しないで 似てる誰かを愛せるから』
30年前にヒットした歌謡曲が聴こえてくる。
思わず胸が熱くなる。
目を瞑る。
意識は生きることに先んじて生じているのか。
訂正する。
この問いは、今を生きること以上に私にとって大事である。
かつてみた映像が脳裏に浮かぶ。
それは現実であったか、幻だったか。そんなことはどうでもいい。
感覚は確かにリアルに残っている。
私は私である以前に、ある意識の中に生じた私であった。
何百何千と繰り返す私は今こうして稚拙な人の言葉を発し、ときどき人の成す行いにひどく戸惑い、ときには人の行いに深く感心を抱く「私」もまた私である。
この世界に人として形を成した「私」という存在には、きっと何か意味があるのだろう。
私は再び携帯電話を取り出しメッセージを送る。
遅刻を詫びて、私は下りの電車に乗り換えた。
電車は前に進む。
今から向かえばきっと、会議に間に合うだろう。

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純文学作家(自称)