天上天下唯我独尊

身の回りに起きるすべての事象は、2つに分けて捉えられる。
感謝できることと、そして感謝できないことに。

人生とは面白いもので、何かを強く欲するとちょうどそれを阻害する要因が現れたり、必ず何かが欠けるようになっている。
それは、魂の成長のため、というわけではなく、手元にないものを欲するという欲の性質から、人は意識的に、ときには無意識に自らそのようになることを選択している。
反対に、人は日常に溢れ容易に手に入るものには、なかなか感謝を感じることがない。

もし地球上で酸素が不足し、呼吸することにお金がかかるとしたら、誰もが酸素を得られることを喜び、吸い込む息、吐き出す息の一呼吸一呼吸に感謝を感じるだろう。
そう考えると、足りないものを得たときに沸き上がる感謝や、何かを成したときの感謝以上に、今あることに深く感謝を感じられる人に尊敬を抱く。

そうは言っても、日常の中で常に感謝とともに生きている人は稀である。
感謝の心に反し、最愛の人を失くす、住む家がなくなる、身体が自由でなくなる、死が迫るといった、人が感謝を忘れるのに十分なことが人生には訪れる。
日常の些細なことでも、人は感謝を失くす。
かすり傷をおったり、中傷を受けたり、お金を無くしたり、雑事に追われたり、やりたいことができないと、人はため息を漏らす。

人はどうしたら感謝を心に取り戻せるのだろうか。
逆説的に考えれば、欲深く日常に感謝を感じられない人は、何かを成すことや日常でないことをすることによって感謝を抱くようになる。
無味乾燥な心を抱き続けるよりは、自分の納得する何かを探すのが感謝への道である。

感謝できない事象からは距離を置くというのも大事なことである。
感謝できない心というは感謝できないことに共鳴する。
するとまた、感謝できないことが起きる。
だから、好きなことをしたり、好きなものを集め、やりたくないことはしなくてよいというのは、正しいことでもある。

そのように、日常に感謝できることを作る、それもまた一つの方法である。

では、そんな時間も手段もないという人はどうしたら良いだろうか。
囲まれた檻からでられそうになく、未来が見えない。
自分が死ぬか、誰かが死ぬか。そんな不自由な選択しか抱けなくなった人はどうしたらよいだろうか。

そんなときは、目を瞑り想像する。
はじめに頭に浮かぶのは嫌なことばかりかもしれない。
むごたらしい想像や、言葉にできない映像が頭に現れることがあるかもしれない。
それでも、想像を続ける。
大丈夫。それはあなただけにしか分からない。
あらゆることから、あなたの心の言葉は独立している。
どんな神様もあなたの心の中には関与できない。
あなたは自由に想像を続けられる。
そうして自由に翔んだ想像を、少しずつ、自分自身のことに重ねていく。
目の前にある感謝できないことは何から生じているのか。
それを感じている自分という存在の根本を遡っていく。
意識を1年前、3年前、10年前と過去に戻していく。
幼児の頃の微かな記憶を越えて、母親の胎内に戻る。
系統発生を繰り返す自身の個体発生を巻き戻し、意識の中で人類が歩んだ400万年を振り返る。
さらに戻り、類人猿であったときの姿、ネズミに似た哺乳類、そしてオタマジャクシのような形にまで戻る。
さらに過去への旅を深めていく。
あなたは炭素といくつかの分子が合わさった一つの有機生命体である。
生命の誕生という38億年の旅が終わり、さらに時間を遡っていくと、あなたは宇宙に浮かぶ一つの塵となる。
今あなたは137億年前に誕生した一つの意識である。
そこから、今度は巻き戻った時間を経過させていく。
一度なぞったあなたの旅は、容易に137億年を越えて、現在までやってくる。
あなたが存在した理由は偶然という名の必然が幾重にも重なった結果であることが分かる。
目を開ける。
爪の先から頭の先まで、あなたを構成するすべての細胞、そして分子は、137億年前から予期された、あなたのために集まったものである。
眼前に広がる景色、あなたを取り巻く状況、あなたがいま生きているということ、それはあなたとともにある。
それを感じたとき、あなたの心には感謝が宿る。
天下天下唯我独尊。
そこからあなたは歩みはじめる。
それは感謝をまとった、新たな一歩である。

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純文学作家(自称)