田山花袋『蒲団』の内容に入る。
36歳の東京に住む作家であり会社員の男が冒頭、失恋の傷を引きずりながら『とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既にひとの所有だ!』と叫ぶ描写から物語は始まる。
男には妻と3人の子どもがいる。
文学上の弟子として田山花袋の家に寄宿していた女学生によって男は何かを失い、そして何かを得たのである。
すぐれた文学作品というのはときを経て再読すると、前に読んだときとは違った印象を持つ、と言われる。
20年ほど前、私は確かに嫌悪感を持って田山花袋を知った。
だが私は今、賛辞と祝福をもって、田山花袋を紹介するだろう。
19歳には19歳の真理があり、40歳には40歳の真理がある。80歳になればまたこの作品も違った印象を持つに違いない。
物語はすぐに3年前に戻り、主人公の身勝手なため息が聞こえてくる。
『世の中の忙しい事業も意味がなく、ライフワークに力を尽す勇気もなく、日常の生活――朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづくあき果てて了しまった。』
そんな折に『先生の門下生になって、一生文学に従事したいとの切なる願望』を持った岡山県に住む、女学院を卒業したばかりの芳子という名の女子から手紙を貰うのである。
一種のファンレターのようなものである。
もちろん最初は取り合わない。
手紙が何通か続いたあとで、ようやく彼は、芳子を弟子にする。
半年ほど手紙のやり取りが続いた後、とうとう芳子が父親に見送られる形で彼の家にやってくる。
主人公と妻と子ども3人、そして芳子で、一つ屋根の下の暮らしがはじまったのである。
といっても、昨今の昼ドラのように主人公と芳子の間で何かが起きる、ということはない。
国民生活や文学上の理想と、恋と肉欲に対する心の煩悶が、主人公(田山花袋)の中で終始続くだけである。
矮小な表現をすれば、肉欲で女を抱くのは簡単である。
澁澤龍彦などが紹介する本物のドンファンのように、美しい本当の容姿と偽りの優しさを持って、お金を使わずに放蕩に溺れる、ということを男は誰もが一度は考える。
だが、田山花袋は何とか踏みとどまる。
憧れや好きという感情で恋の道を進むほど彼は単純ではない。
何より、文学がそれを潔しとしない。世間体や妻や子どものためを思ってしないのではない。
そして身勝手ながらも、覚悟がないからではなく、芳子の将来を考えて、触れないのである。
だが、田山花袋の苦悩は続く。芳子の帰りが遅くなったり、着飾った芳子が若い男子学生と遊びにいっていることを知る度に、悶々と過ごすのである。
そして芳子が帰省の帰り、旅館に男と泊まってきたことを知ると、その苦悩はいよいよ極まるのである。
芳子からはお付き合いしている男子がいるとあかされるも、肉体的は関係はないと言われ、花袋はいちおうそれを信じるのである。
これが夏目漱石の『心』であったならば、「先生」が「K」に発したように『向上心のない者は馬鹿だ』といった表現になり、Kが『覚悟はできている』と返したようなやりとりとなる。
この頃の性というのは、あるところでは奔放でいて、あるところでは戒律のように厳しい。
法律の上では1947年に廃止される姦通罪がまだあり、女性の浮気は最悪死罪となった。
それでも、10代前半の少女が性を売りに金を得ることもあれば、地方の豪商の年老いた男にお手伝いと称し売られることもあった。伊藤博文には愛人が何人もいてその恥行がメディアに暴かれても、政治には何ら影響しない時代であり、その反面、貞操を結婚の中で守るということが尊ばれた時代であった。
やがて芳子の恋人である、神戸教会の秀才、田中秀夫も上京してくる。
田山花袋は二人の恋路を応援する。
と同時に、やはり苦悩する。
やがて学生である二人は生活を共にすることを計画する。
いわゆる、婚前同棲である。
田山花袋はそれを聞き、学問を優先することを諭す。
花袋の想像がだんだんと矮小性を帯びてきて、芳子はもう処女ではないのかなどと1人考え、酒を飲んでは叫び、厠(トイレ)で寝てしまったりすることが続く。
田山花袋はいよいよ自分では手に負えなくなって、芳子の親に手紙を書く。
やがて父親が話を聞くために上京してくる。
離れたくない良子と秀夫。
学問をおさめ何年かしたらその後のことを考えたらいいという良識ある芳子の父に対して、拗ねた態度を見せる秀夫。
この辺りの描写はきっと、田山花袋の意地悪さであろう。
そんなことがありながら、主人公は芳子と秀夫に肉体的なつながりがあることを、芳子の手紙から知る。
先生は芳子に裏切れた気持ちになり、芳子を父親とともに、岡山に帰す決断をする。
そうして、芳子がいなくなった部屋で『芳子が常に用いていた蒲団――萌黄唐草の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のびろうどのきわだって汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅かいだ。
性慾と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
薄暗い一室、戸外には風が吹暴ふきあれていた。』という描写で物語は終わる。
中年男の若い女に対する異様な執着ばかりが取り上げられることの多い作品であるが、通低に明治の文士としての矜持がある。
そして、現代でも同じような話で、将来を有望視して特別に面倒を見ていた人が、思いもよらず突然男ができてどこかに去ってしまう、といったことがある。
現代ではなかなかそれを上手く表現することは難しいが、
そんなとき人は、性慾と悲哀と絶望とがたちまち胸を襲ったりするのである。
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