人間に対するとりとめのない考察

私は職業作家ではないが、小説などという暮らしの役に立たない文字を毎日原稿用紙にうめて、何かが生まれることを期待している。
だが、そうして文字の埋められた原稿用紙はすべて、焼却炉に供養する。
最近知ったのだが、これと同じことを、ある宗派のお坊さんもしている。
丹精を込めて何日もかけて曼荼羅を砂で描く。
出来上がった曼荼羅は一級品とも呼ばれるような芸術である場合もある。
だが、お坊さんは誇ることもなく、小さくオンと口に発すると躊躇なく砂をまた更地に戻す。
そんなことをずっと繰り返している。
私にはまだ高揚も優越もあるので、お坊さんと同じだとは言えないが、形としては一緒である。
空(くう)から生まれたものが、再び空に返っていく。
後には何も残らない。
いや、お坊さんの場合はオンという般若(真理)が生じ、私の場合は、わずかな感謝が生まれている。
それだけか。
それだけである。

では、人間というのは、生まれてきて何をするのだろうか。
何もしなくていい。
人は空から生まれ、那由多(なゆた)劫と呼ばれる果てのない時間の中で魂の旅を終えて、空に返っていく。
その途中で、芸術的に生きる人もいれば、迷いの中で生きる人もいる。多くの人に感謝される人もいれば、殺人を繰り返し非業の生を生きる人もいる。
どんな生き方が一番偉い、といったことはない。
どんな生き方も等しく尊い。
やむにやまれぬ情動から、何かを為す人もいるだろう。
それはそれで尊い。
だが、人間は魂の向上のために生きている、わけではない。
方便として、そのように題目を唱える方もいるし、その方が楽に生きられるなら、それはそれで間違いではない。
反対に、何かをしないために、漠然と不安を抱えて生きていたり、引けめを感じたりする必要は、まったくない。
人間というのは本来制約なく自身で選択したものが、何よりも正しい。
本質的に、人間は自らなろうとしたところのものになる存在である。
なりたいそのものの存在にはなれないかもしれないが、自ら意思した結果のものには、自らの存在が宿っている。
それが人を作る。
つまり、人は自分で自分を人間にする。
そうして人間となったあなたは、何をするだろうか。
世の中のために何かをしたいのであれば、したらよい。
スポーツで活躍したいのであれば、したらよい。
毎日笑ってすごしたいのであれば、したらよい。
そして、何もしたくないのであれば、何もしなくてもよい。
自ら為ったことは、人はそれに感謝する。人に感謝されることを念頭におくよりも、自らが感謝できることを為す。
そうして自身の感謝を広げていき、ただそこにある一個の存在から、世界を、今という瞬間を感謝するようになる。

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純文学作家(自称)