オン カカカ ビサンマエイ ソワカ

地蔵菩薩の真言である。
先日投稿したエフィカシーの話に通じるが、幼少の頃、私は将来、地蔵菩薩になることを夢見ていた。
もっともその頃、地蔵菩薩という名前は知らなかったので、卒園時に書いた「将来の夢」には『かみさま』と書いたのだが、頭に描いたイメージは人々を救済するため地獄を闊歩する地蔵菩薩そのものであった。
それから何度か夢で地蔵菩薩を見ることになるのだが、ある日地蔵菩薩から、ソフトボールぐらいの漆黒の球体を渡されたことがある。
触れた瞬間、その球体の重さと密度は私の手を貫き、地面の下に消えていってしまった。
まるで宇宙のすべてがその球体に入っているかと思うほどの存在感であった。
今思えばあれは地蔵菩薩が左手に持つと言われる如意宝珠だったのだろう。
ということで、私の未熟さからか修行不足からか、幼少の頃に抱いた、現世において地蔵菩薩になるという夢は一度潰えてしまったのであった。
もっともはじめから、私は仏門に入るつもりはない。
釈迦も言っている。既存概念にとらわれず信仰を捨てよ、と。
私を拠り所にするなと。
そして、さいの角の如く唯一人歩め、と。

といって何もおこなわない理屈を並べていても仕方ない。
この世界はすべて満たされている。だからすべての人はそのままで本来完璧である、という前提があるにせよ、誰かを鼓舞したり励ましたり楽しませたりすることは、尊いことである。
菩薩になるのを諦めてから数十年、今また私は、一つの達成すべき目標を立てる。

やはり私は、地蔵になろう。
菩薩でなくても良い。
今度は如意宝珠をこの手でちゃんと掴んでみせる。
各地を歩き、誰かを鼓舞したり励ましたり楽しませたりする、そんな存在になりたい。
私のささやかな願いを、菩薩の真言と共に祈る。

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純文学作家(自称)