「嫌い」の源泉

人が何かを嫌う理由は、嫌いな対象よりも、自分の側に由来する。
絶対的な悪事というものは存在しないが故に、絶対的な正義を掲げることはできはしない。
他人に言えることは、せいぜい「私はそれが嫌い」ということと、「その行為は嫌いな人がいるから考慮してくれたら嬉しい」ということぐらいか。
不倫をしている女を駄目だと思うのも、
女をやり捨てする男を駄目だと思うのも、
働かない男も、性のモラルが低い女も、それ事態としては、そういう事実があるというだけの話だ。
見る側にまったくルサンチマン(負の感情)がないことなど稀である。
「私は子育て頑張っているのに」という感情はわずかもないか。
「苦労しないで生きられてうらやましい」という気持ちはまったくないか。
人を駄目だと思う時は、明確な意思でなくてもわずかなひっかかりが必ず見つかる。
私の場合、チャラくてものを知らない人が嫌いだった。
彼らを否定するために、「馬鹿はこの世の中生きていけない」、「努力しないと年収も上がらない」などと言っていたが、
自分の心を深く深く掘りさげていくと、「自分は遊びもせずに頑張った」というマイナスの感情が見つかる。
人はルサンチマンから開放された方がいい。
なにくそ!と負の感情を奮起のパワーに変換できればいいが、多くの場合は自分を制限する力に働いてしまう。
他人の子供が不倫のためにないがしろにされていたら、親を責めずに、代わりに子供あやしてあげればいい。
のんびり暮らしている人がいたら、もっと楽してもらうために自分はもっといい世の中を作ればいい。
否定をする人こそ駄目なんだ、と言ったらまたこれも、自分の側にルサンチマンが現れる。
正直、負の感情を持たなくするのは難しい。
誰だって、自分が可愛い。
だから、他人を見下しそうになったら気をつける。
あぁ~この人嫌いだなという感情は消せはしない。
けれども、自分のマイナスの感情には気付くことはできる。
その上で、自分の行動を豊かなものに変えていけたら、自分も回りも豊かになる。

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純文学作家(自称)