おもてなし

誰にでも自ら認識できない裏がある、という話は次回にするとして、一期一会の現代的解釈が、千利休の弟子である山上宗ニのそれとは異なったものになっているという話をしたいと思う。
が、その前に、男が男をもてなす場について思うところを述べたい。
簡単に言えば、贅を尽くした江戸の商人達が、最終的にたどり着いたのが、学問であった、という作り話めいた話があるが、これはきっと、遊びを知らない学者のルサンチマンを上手く満足させる、よくできたお話の一つであろうと、私は考えている。
ということで旧知の男と飲むのに学問の話などはしない。
30を過ぎたいい大人が遊ぶと言えば、銀座のそれなりの店でホステスと次の衆院選について語るぐらいがいいかと思ったが、見栄なく申せば私の経験値は最近の中学生と同レベルなため、遊びを云々いうのもまた、おこがましい話である。
また銀座の相場がどの程度か知らないが、10万という金は酒を口に含む間もなく消滅してしまうのではないかと勝手に想像している。
女を用意すると言えば綺麗な言葉に直せばコンパニオンを呼ぶのも、また躊躇われるのである。
結論として、私の場合は飲めたらどこでも良いのである。

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純文学作家(自称)