朝の8時半。通勤中に満員の京浜東北線に揺られながら一人の男の物語を読み、思わず涙してしまった。
男の名は梶井 基次郎(かじい もとじろう)。明治から昭和初期に生きた作家である。
梶井は1901年(明治34年)2月17日 に誕生し、1932年(昭和7年)3月24日)に31歳の若さで亡くなった。
梶井の身体は長く、病に蝕まれていた。
十分とは言えない創作時間の中で、梶井は珠玉の作品をいくつか残している。
今日はその梶井の代表作ともいえる『檸檬』の話をしたい。
《えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。》
『檸檬』はそうしてはじまる。
1925年(大正14年)1月、梶井が23歳のときに、仲間とともに同人誌『青空』を創刊する。
その第1号に掲載されていたのが『檸檬』である。
刊行された『青空』はたちまち評判になり『檸檬』の作者、梶井基次郎は一躍時の人に、ということにはならない。
『青空』は1927年(昭和2年)6月に28号で廃刊となり、それからいくつの同人誌で梶井は作品を発表するが、梶井の身体は徐々に痩せ細っていき、死期を察した仲間が奔走し、梶井の創作集『檸檬』を刊行するのが1931年(昭和6年)5月である。
それでようやく出版社から作家として認知され、それから半年後に梶井は帰らぬ人となった。
そのため、梶井は生前、世間にはほとんど名を知られず、同人仲間と一部の作家だけが梶井の作品を知り、そのうちの数人だげが彼の書いたものを称賛していた。
二歳年上であった川端康成もまた、梶井と生前から交流がありその才覚を早くから知る一人であった。
また、あの天才三島由紀夫も梶井について文章を残している。
《いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路になりうる。》
— 三島由紀夫「現代史としての小説」
あの三島由紀夫にここまで賛辞されたら作家冥利に尽きるというものだろう。
もっとも梶井にとって、他人の評価を気にすることはあっても、その評価が作品に影響することはなかったはずである。
《焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。》
中二病を患った者が厭世感を表現するときがあるが、梶井の凝縮された文体はそのような一種の気恥ずかしい表現とは異(こと)にする。
三島が指摘するように、梶井は自身の純粋体験を詩的結晶と言われるほどまで圧縮し、それを言葉として表現した、稀有な作家である。
芥川龍之介と谷崎潤一郎による「小説の筋」論争にもあるが、作家には2種の異なるタイプが存在する。
谷崎は、小説は「構造的美観」つまりはストーリーが大事だとしたが、芥川は「『話』らしい話のない小説」でも小説は小説として成り立つとした。
この論争は客観的にみて芥川の分が悪い。なぜなら芥川の主張は観念的であり、芥川自身が途中で自殺してしまうからである。
現代において、「『話』らしい話のない小説」を書く作家はほとんどいない。
いたとしても、世間には評価されない。
小説にエンターテイメントを求める人間は、『檸檬』のような小説を、面白いとは思わないだろう。
功利を重視する人間は『檸檬』のような小説を読むことは、時間の無駄だと思うことだろう。
それでも梶井基次郎の『檸檬』は世界でも有数の文学作品であり、私が最も好きな小説の一つである。
そのような、目的や着地点のない小説が日本で書けるのは、日本において和歌や俳句など一個人の詩的表現を重んじ楽しめる土壌があるからで、それは日本語がそのような表現手法において発達した言葉だからである。
その日本語を結晶化し、誰かを楽しませるためだとか、社会のため、といった目的をなくし、ただただ純粋に文学を追及した文学、それが『檸檬』である。
令和にあって、私も梶井基次郎が書いたような、そんな文学を遺したいと胸に秘めている。
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純文学作家(自称)
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